○同性愛ぐらいで「変態」とかつぶやく人の気が知れない
最近、公的な立場にある人間が、ツイッターとかのSNSなんかで「同性愛者は変態だ」とかつぶやいて物議を醸し謝罪する羽目になっているのをネットニュースなどで散見するが、純粋にものを知らんアホどもだなと、差別的云々といった観点ではなくて、むしろその無知さを腹立たしく感じる。今の情報化の社会において「無知は罪」だとある作家が書いていたが私もそう思う(その作家は続けて「馬鹿は罰」とも書いていて馬鹿としては身につまされる。)。
同性愛なんていうのは現象としては、今も昔も古今東西普通に一定程度ある珍しくもないものである。中島らも先生が新聞の「明るい悩み相談室」で「同性しか好きになれないんだけどどうしよう?」という少年からの相談を受けて、「そういうのは一時の気の迷いだから、勉学やスポーツに励んでいれば普通に異性を好きになるようになります。」とか答えている凡百の人生相談を糞味噌にけなして、そんなんだったら柔道やらスポーツに打ち込んだのがきっかけでホモに目覚めた人の存在やら普通に新宿2丁目とかにたくさんいる同性愛の人をどう説明すればいいんだ?無責任にも程がある!と断罪して、少年には「くだらないことで悩まずにとっとと素敵な彼氏でも見つけなさい」とアドバイスしていて「流石らも先生!」と思ったものである。
同性愛なんてのは、旧約聖書で同性愛のはびこる街ソドムが神の怒りに焼かれているけど、キリスト教の始まるときにはすでに教義でやめろと書かなければならないぐらいにきっちりあったことがうかがえるし、日本でも戦国武将やら女人禁制のボンサンがお小ショウやらはべらせる「衆道」なんて文化があったくらいのものである。珍しくもなんともない。
生物学的には、一見子孫を残さない同性愛は何らかの「間違い」のようにも見えるが、事実として人という種のうちから一定程度同性愛の人間が出てくるという現象があるからには、そこには「間違っていない」理由が隠されているとしか考えられない。どう理屈をいじくったところで事実いるものはいるので、そういう遺伝的要素が消えずに残る程度の有利さを持っているというのが生物学的で帰納的な答えだろう。たぶん同性愛が存在しうる生物学的な答えは社会性昆虫の利他的行動あたりと似たような理屈だろうと思う。卵を生まない働きバチが自分の血縁である幼虫たちを世話する理由。卵を生んで直接自分の遺伝子の1/2を残す場合より、卵を生むのは親に任せて自分の遺伝子の1/4を確率的に持っている兄弟たちをたくさん世話した方が自分の遺伝情報を効率的に残せるというやつ。兄弟たちが子供を作ればそれらは自分の1/8の遺伝情報を確率的に持って生まれてくる。そのことに気づいた生物学者は祝杯をあげながら「俺は8人の甥っこ姪っこのためなら死ねる!」と叫んだそうである。直接子供を残すことだけが子孫を残すことではないというのが今時の生物学の常識。このあたりは竹内久美子先生あたりの本で面白く上手に紹介されている。
同性愛のカップルは養子でももらわない限り子供を持たないことが多いだろう。そうすると「子育て」はしなくてよい。その分のコストを経済活動やら芸術活動やらスポーツに割り振ることができるはずで、その分成功する可能性は増えるだろう。成功して子供はいないけど、自分と共通の遺伝的要素を持つ親戚に支援したりする事を通じて、結果的には自分の遺伝子をたくさん残すことにつながるというのが簡単に思いつくモデルケースか。実際にはもっと複雑な要素が絡み合うのだろう。人間以外のほ乳類でも同性愛はいろんな事例があるようだし、魚でもメスの振りして産卵に潜り込む偽メスというような事例もあり、オスとメスの異性がつがって子孫を残すという単純な図式ではすまされない複雑怪奇な事例が生物の生存戦略の多様性の中には普通にある。
そういう複雑怪奇な性の実態を示すおもしろい報告を最近目にする。いくつかの関連するニュースがあったが、精神医学的には、人間の性的嗜好は男性も女性も完全にヘテロな異性愛というのはむしろレアケースで、多少同性愛的な嗜好が混じっているほうがむしろ多いそうなのである。男性女性の裸の映像とか見せて、目線や脳の活動の具合を追っていくと、同性にも結構興味を示していることが明らかになるらしい。「同性愛なんて変態だ」と言っている人間の心にもほとんどの場合同性愛的な嗜好が隠されているんだとか聞くと、ますますそういう主張が馬鹿臭く見えてくる。
「変態」というのは、かなり少数の人間しか抱かないような特殊な嗜好を指す言葉だと私は理解している。ネットの時代になって匿名で嘘もあるだろうが、赤裸々な他人の嗜好をかいま見ることもできるようになると、たとえば性癖に関していう場合でも、とんでもなく多様な嗜好が割と普通に世の中にはあって、同性愛なんてのは箸にも棒にもかからない「ごく普通」のことだと思わざるを得ない程度に「すごい変態」が世の中にはいることを知って愕然とする。
では「変態」というのはどういうものか、私が思うところをちょっと書いてみたい。
ニュースでちょっと驚くような性犯罪が報道されると、ネット上では「番付編成会議を召集しろ」という意見が飛び交い、某巨大掲示板にそういうスレがたち、ネットのどっかに偏在する番付編成委員たちが意見をくみ交わし「変態番付」を決定する。最近では側溝の蓋をはずして忍び込み上を通る女性のスカートの中を覗いて御用になり取り調べで「私は道になりたい」という名言を吐いた変態さんが再犯で捕まり昇進を審査する会議が開かれていた。つまり初犯時この程度では「横綱」ではないわけである。横綱には確か「女子校に忍び込んで体操服を盗んで着用のうえその場で脱糞」という、文章にするとシュールな非定型散文詩のように鮮やかな心・技・体、文句なしの変態横綱がいたと記憶している。
でもまあ、このあたりの変態も女性の体や身につけるものに対する執着というあたりは、実行に移す犯罪者となるかどうかは別にして嗜好としては至って普通にあるようで、それらがネットの時代になって明らかになって、新しくネットスラングで名前を与えられるようなものになっていたりする。たとえば、女性を傷つけることに執着する性癖に対しては日本では「リョナ」という呼び名がネット上で使われるようになった。語源は書くとこのサイトの品性がだいぶ下がりそうなのでググってほしい。同じような性癖を英語圏のネットスラングでは「スポポビッチ」というそうである。精神医学者のスポポビッチ博士が提唱した、とかではなくて、ドラゴンボールの登場人物からの命名だそうである。どんなキャラクターだったっけとググって思い出した。孫悟飯のガールフレンドのビーデルを天下一武道会でサディスティックにいたぶった奴でなるほどなという感じ。
このあたりまでは、まだ少なくとも女性というか人間の何かが性的な興味の対象になるので、分からないなりにもそういうのはあるんだろうなと想像はできる。
でも、世の中にはガンダムのプラモデルや電車の時刻表に性的な興味を覚える人間さえいるというのを知ると、人の性的嗜好なんてのは想像以上に遠いところまであまねくすべてのものをカバーしているのだなと感動すら覚える。
ガンプラてどうなのよ?まあいい、ガンプラは少なくとも手足もあるし人間ポクもなくはない。時刻表はもうネ、どうにも歯が立たないヤバい感じがする。でっかい駅に電車が出たり入ったりするのがなんか良いのだろうか?もっと想像もつかない境地に彼らはいるのだろうか?さすがにこのあたりまでくる強者は多くないと信じたい。
てな具合に遠いところに冒険している勇者がこの世にはいるというのに、同性愛程度の「普通」に存在する少数者を、自分が多数派で普通だと信じてその価値観を疑おうともしない無知蒙昧な(と偉そうに書かせてもらう)輩が無邪気に迫害してたりする様を見ると、特に同性愛の知人やらがいるわけではないけれども、噛みついておかずにおれない天邪鬼な我が性格である。
人の性的嗜好なんてのに、実際に犯罪を犯すような場合を除いて、他人がとやかく口を出すのは無粋の極みというものだと思うのである。
変態だってべつにいいじゃないか。
(2015.12.03)