○「本のページ」第12部 −ナマジの読書日記2018−

 

 2018年もダラダラと更新していきます。

 

<2018.12.26>
○宮崎康彦「紀の漁師黒潮に鰹を追う」 ラノベの新刊とか挟みつつ漁師関係の話を読んでいる。今読んでる再読の「一本釣り渡世」がすざまじく面白いけど、その前に読んだこっちも面白かった。魚を追って旅に暮らす”夫婦船”の曳き縄漁師を追ったルポルタージュなんだけど、洋上での暮らしぶりとか漁の様子とかが興味深い。しばらく沖縄から三陸までの黒潮関係の漁師本を読む予定で何冊か買ってあり楽しめそう。
○「堕天作戦第4巻」「レイリ第5巻」「ゴールデンカムイ第15巻」「ハコヅメ」 最近読んだマンガではこの4作がメチャクチャ面白かった。「堕天作戦」はあんまり話題になってないけど王道のSFを若い感性で完成度高く描いている。「レイリ」は贅沢な原作・作画体制だけど贅沢しただけの価値がある。岩明先生原作の重厚な歴史絵巻に室井先生の描くどこか愛嬌のある生き生きとした登場人物が重なって極上。ゴルカムはサハリン編突入でジョジョネタ「オレオレオレオレ〜」は布団の中で笑いが止まらなくなった。この人のギャグはホントにオレ好み。「ハコヅメ」はモーニングの新連載では久々の超ヒット。交番勤務の女性警察官の日常やら雑用やら刑事ドラマでは決して描かれない生々しいネタが面白く、時たま来るいい話が落差で刺さってくる。爆発的ヒットはしないかもだけどドラマ化ぐらいはしそうな感じ。


<2018.11.8>

○施川ユウキ「銀河の死なない子供たちへ」上下、うめ「南国トムソーヤ」全3巻 活字の本も電車でボチボチ読めている。マンガ読むペースは落ち着いてて新刊消化ぐらいでちょうどいい。そんな中面白かったマンガ2作品。施川ユウキ先生は最近描くモノすべてが面白いと思ってたけど、「ポーの一族」や「火の鳥」に代表される永遠の命を持つ者の苦悩を描いて人が生きていくということの根源に迫らんとする作品の系譜に燦然と輝く金字塔を打ち立てた。オレの中で。スゴイ、よくぞここまで漫画家として研鑽を重ね成長した、と若手の頃から知ってるので感慨深い。とエラそうに書いておく。「南国トムソーヤ」のほうは、沖縄のユタとか呪術的な世界を現代風俗の中に落とし込んで描いて、軽やかにボーイミーツガール&ボーイな感じの極上のエンタメに仕上げている手腕に諸星大先生を思い出した。やるなという感じだ。

 

<2018.10.21>

○ジャック・ロンドン「火を熾す」 新訳だそうで人様にお薦めされて読んでみたけど、ちょっと格好良くて痺れる面白さ。短編集なんだけど、表題作やエスキモーの姥捨て山のエピソードあたりの感情表現を抑えた固茹で気味の文体とか日本の作家にはない味わいだし、ハワイイのジ様の船上での哲学問答やらなかなかに楽しいし、老いゆくボクサーの悲哀とかは身につまされたりした。「野生の呼び声」は読んだことあったけど古い時代の作家だとあまり注目してなかったけど素晴らしかった。

○マンガはイマイチノリ切れなくて新刊出たのぐらいを読むほかは再読でお茶濁してる感じ。再読モノでは「世界八番目の不思議」が突飛な設定の短編を毎回趣向の違う手で面白く読ませてくれて良かった。

 

<2018.9.6>

○「ゲノム」「ラブやん」「ジャングルの王者ターちゃん(無印・新)」 ここしばらく、台風の影響でか頭がイリイリするのもあって、集中してマンガや小説が読みづらく、そんな中でも小学生男子の大好きなウンコ、チンコ、オッパイとかのコテコテの下ネタ連発のこれらの作品の再読が私にひとときの笑顔をもたらしてくれた。各先生方感謝します。

 

<2018.8.10>

○谷川ニコ「クズとメガネと文学少女(偽)」1,2巻 文学少女を気取りたい少女を中心とした図書室に集まる4人の交流を文学ネタを織り交ぜつつ描く、って「ド嬢」のもろパクリやないかい!?と、同じ様な設定でも作者が違えば全く違うというのは知りつつも、さすがにコレはまずいんでないかいな?と思いつつ読んでみたら面白いんでやがる。原作者、本家「ド嬢」の施川ユウキよりは確実に本読んでなくて付け焼き刃な感じがありありと漂うんだけど、逆にそれが文学少女(偽)に妙な「らしさ」を生み出していて笑える。谷川ニコ先生男女2人組だそうだけど独特の感性から生み出されるギャグがオレ好み。あんまり話題にならないけど「ナンバーガール」は4コマ史上まれにみる傑作だった。今連載3本の売れっ子だけど全部楽しみ。「わたモテ」最新巻も面白かった。

○施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」4巻 でもって本家の方の最新巻。みんな違ってみんな良くって優劣付けるような話じゃないけど、比べるとどうにも本家の方が味わい深いと感じる。めんどくさいSFマニアの神林さんの圧倒的な魅力に萌える。でも施川先生も酢飯疑獄とかさなぎさんの頃には光るものはあったけど、今みたいに描く作品すべてが味わい深くて染みるような漫画家じゃなかった。長く続けてきた中での研鑽や人生での経験やらが作品に染みていい味になってるんだろうか。

○石黒正数「天国大魔境」1巻 でもってマンガ界の未来を切り開くであろう「それ町」の石黒先生の新連載。それ町でもミステリありSFあり笑いあり人情ありと引き出しの多さには唸らされっぱなしだったけど、この人その引き出しのそれぞれどれもが水準高くてビビらされる。チャンピオンで連載している4コマ「木曜日のフルット」もまごうことなき石黒キャラがちゃんと4コマしててかつ面白いという、自由自在の作風。その石黒先生の新作が謎が謎呼ぶ終末モノのSFと来た日にゃ、こりゃ女房を質に入れてでも読まねばならんですぜ。のっけから全開で面白い。この人の才能はいくら誉めても誉めすぎるということはない。この人とあと阿部共実先生がいるだけでマンガの未来は明るいと信じられるほどの若くてまぶしい才能。 

○西尾維新「宵物語」 大学生編突入。アニメ化でバカ当たりしてダラダラと続いていた感じが否めなかったけど、ここに来て再度熱を帯びてきた。コレまで23巻の大長編シリーズラノベになってるけど、終わるまで読みたい。西尾先生の方が若いのでワシが死ぬ前にシリーズ完結するか知らんけど、死ぬまで読むことになりそうな気がする。だって面白いんだもん。忘却探偵シリーズ新刊も読まねば。

 

<2018年8月5日ブログ再掲>

○UMAの証明

 幽霊やら霊現象なんてモノは存在しないと思っている。あんなもんはインチキが半分、残りが枯れ尾花と幻覚とかの脳の誤認識で間違いないと思っている。

 「宇宙人」はいるんだろうと思っている。宇宙は広いんだろうから人間のようなタンパク質の体をもつ知的生命体はもとより、SFに出てくるような珪素生物とか地球の生物と全く違う仕組みで自己増殖していく「生命」がいてもおかしくないぐらいに夢見がちなことを考えている。

 でも、その宇宙人がUFOに乗って地球にやってきているというのは、ないだろそれは?と思っている。宇宙人がやってくるには宇宙広すぎで距離が遠すぎる。メッセージとか情報が宇宙から届くのならまだ分かるけど、ご本人がおいそれとやってくるわけがない。宇宙人ネタなんてのはインチキが半分、以下略。

 ただ、いることの証明は1個体でもつかまえてくればすむけど、いないことの証明はいわゆる「悪魔の証明」になるので、事実上不可能だとは知っている。でも、まあいないって。

 一方でおなじオカルト系でも、ネッシーとかイエティとかUMA(未確認生物)はいてもおかしくないと思っている。

 幽霊や宇宙人のような1個体も捕まっておらず、過去に一度もその存在が証明されたことがない類のわけのわからんモノとは基本的に性質が違うと思っている。

 「UMAだって過去に1匹も捕まっていないじゃないか?」と思われるかもしれないけれど、そこがそもそもの認識から間違っている。UMAは1個体捕まった時点で標本にされ未確認生物から、過去に知られている生物にあたるのか、新種なのか研究者が報告し、確認された生物種となるのである。

 いま未確認生物とされているものは1匹も捕まっていないとしても、過去に未確認生物だったのが捕まって「確認済み」となった例はいくらでもある。

 例えば、とある島に山で夜目が光るので「ヤマピカリャー」と呼ばれる未確認生物がいるといわれていたが、長くその存在は明らかとならなかった。でも、現地の人は食べたりしていて、噂を聞きつけた作家と科学者が懸賞金掛けて探しだして実在することが証明された。そして既存の生物とは種レベルで違うということで新種として報告されたのが「イリオモテヤマネコ」である。この手の「確認された」生物でもっとも有名なのはゴリラだろうか?

 捕まえてみたら機知の生物だったなんてオチがつくことも過去にたくさんあっただろう。漁師が麻縄とかで釣りをしていた時代、地中海である季節になると、ものずごい力で縄をブッちぎっていく獲物が掛かることがあって、どんな化け物が掛かってるんだろうと漁師たちはいろいろと想像していたけど、釣りあがらないので確認ができない。ところがナイロンが発明されて、けた違いに丈夫な縄が釣りに使われるようになると、その化け物が揚がるようになった。産卵のために回遊してきた巨大なタイセイヨウクロマグロだった。なんてのも有名な話。

 「でも今の時代に、まだ未確認の大型生物なんてあり得ないでしょ」と思うかもしれない。確かにネス湖のような閉鎖的な水域に首長竜はいないかもしれない、でも海ならまだ、シーサーペントが本当に首長竜でした、って報告が飛び込んできても、驚かないわけじゃないけどあり得ると納得できる。だって、メガマウスなんていう大型のサメが始めて確認されたのが1970年代とかの近年っていう前例があるし、最近でもドローンでの観察で魚類第二の巨体を誇るウバザメが多数集まるという行動が始めて報告されたっていうぐらい、コレまでも海の調査なんてずっと行われてきたけれど、それでもまだ神秘が眠っていると確信できるぐらいに海は広くて深いのである。

 首長竜はさすがに卵産みに上陸する必要があるから、いるのなら今まで見つからなかったわけがない、とかしたり顔で言う人間は「遠い海から来たCOO」を読んで「その手があったか」と蒙を啓かれるといい。

 でも21世紀にもなって、さすがに陸上はもう人の手が入ってないところはなくて、先日「ダーウィンが来た!」でやってたオリンギートみたいに既知の種だと思ってたらDNAとか調べてみたら新種だった的なのはあるにしても、昆虫とかならともかく大型の生物でまったくの未知の新種が出てくるとかは正直無いと思っていた。

 ところが、フィリピンのルソン島なんていう人口の多い人の手の入った場所から、2009年に2mにも達するオオトカゲの新種が見つかっている。現地の部族民には狩猟対象として知られていて、狩られた写真を見た研究者が「こんなところにオオトカゲがいるのか?」と驚いて調査したところ、高い樹上で暮らす草食性のオオトカゲを発見しVaranus bitatawaと名付けられた。尻尾が長いにしても2mのオオトカゲが見逃されてたってんなら、大概の陸生UMAがこれまで見逃されてきていても何らおかしくないジャンかと、とっても驚いたことを覚えている。コイツにしろイリオモテヤマネコにしろ昔から食っちゃってた地元民からしたら当たり前のことをいまさらなに学者先生は騒いでるんだと、オラいるって最初から言ってるべさ!という感じだろう。

 現在未確認生物とされているヤツらでも、現物の標本をもとに報告されリンネ先生が基礎を築いた分類体系に整理され名前を付けられたらUMAはその時点でUMAじゃなくなるのである。

 というのが、今回「枕」で、夏だし読書感想文の季節ということで「ナマジの読書日記」出張版でお送りします。

 課題図書は角幡祐介「雪男は向こうからやって来た」である。

 角幡祐介先生は、高野秀行先生と並び、新刊出たら全部読まねばならない、と私が思っている現代日本を代表する冒険作家である。

 高野先生が、楽しくアヘン中毒になりながらアヘン村からの潜入報告を爆笑必至の筆致で書いてくるよな”天然系”なのに対して、角幡先生は、なんというかこじらせているというかとことん不器用で真面目で、「冒険とはなんぞや」なんて哲学を常に自分自身に問いかけているような芸風で、にもかかわらずどこか悲哀を伴ったような可笑しさが付随してくる味わい深い文章を書く作家なのである。控えめにいってとってもお好みである。

 この冬から春にかけて、活字の本が読めなくなるナマジ的読書生活危機をむかえて、読まずにいられなくなる面白い本を読みまくろう、っていうそんな本があれば苦労しないってな方針を立てた。そのときに、自分の読書の傾向と対策を分析して、冒険探検関係と釣り海関係はどうも手堅そうだということで、その手の本で積んであるのから読み始めてみて、何とか目論見通り危機を脱しつつある。角幡先生の作品では「漂流」を先に読んでいて、これまたクッソ面白かったので、今作は角幡先生の実質的処女作らしく、作家の処女作って荒削りながらも作者の初期衝動のほとばしる「魂の力作」であることが多くて、実は読める本がなくなった時に読む用として「確保」に整理していた本だったけど、今読まずしていつ読むということで読んでみた。

 期待以上の面白さ。内容は角幡先生が新聞記者を辞めてツァンポー渓谷探検に行く前にひょんなことから日本の「イエティ・プロジェクト・ジャパン 2008雪男捜索隊」に参加したときのルポなんだけど、ぶっちゃけUMAファンなら「ヒマラヤのイエティってクマ説で決着付いたんでしょ?」ぐらいに思ってて、イエティはUMA界では超有名どころの大物だけど、今更それ程には興味をそそられない対象だと思う。

 でも違った、なんちゅうかネットに飛び交う公式発表的な短くまとめられた情報だけを拾っていると、確かに地元民がイエティの毛皮として持っていた毛皮がDNA鑑定の結果ヒグマだったとか、2017年のアメリカの研究チームの「クマの可能性大」とする報告とかしか見えてこずクマ説で決着しているように思える。

 ファストフードのように簡単に素早く消費されていく情報では、おつゆタップリの本当に美味しいところが抜け落ちてしまっているということをまざまざと感じさせられた。

 角幡先生は、とにかく自分の求めるモノに対して、それが未知の渓谷だろうと既知の探検家の足跡だろうと、徹底的に文献にあたり可能であれば関係者に話を聞き、もうそれは執拗と言って良いぐらいに丹念に丹念に情報を集め調べた上で、実際に自分の目と足を使って近づくという方法をとる。

 今回のイエティについても1887年のヒマラヤ研究家ワッデルの報告から始まって、あの世界の田部井淳子さんの「私は見た」という証言も本人から聞き取ってきていたりする。田部井さんも見てるんだ!

 でもって、数々の文献、証言を総合して角幡先生はイエティには2種類いて大きな動物であるズーティと地元で呼ばれるモノは、生息地やらなにやらから考えてやっぱりヒグマと考えるべきだろうと結論づけている。でも地元でミィティと呼ばれる14歳ぐらいの少年程度の小ささで全身赤みがかった毛で覆われている動物がどうも別にいるようで、「雪男(≒イエティ)と呼ばれる未知の動物が本当にヒマラヤにいるのなら、その正体はこの小さいミィティの方である可能性が高そうなのだ。」と書いている。

 このことは実は角幡先生が参加した雪男捜索隊でも共通認識で、普通雪男イエティと聞いて想像するような白い毛に覆われたゴリラのような猿人は”真面目”に雪男を捜索している人達からは既に鼻で笑われるような胡散臭い雪男像のようなのである。

 ヒグマだろうと推定されているズーティにくらべても、その正体が今でもぜんぜん明らかではないミィティについて、何かがいるんだろうことは本書を読めば分かる。それが、既知のサルの一種なのかあるいは斜面を登っているので二足歩行しているように見えたカモシカの類とかなのか、本当に未知のサルの一種が棲息しているのかぶっちゃけ分からない。でも何かいる、あるいは見えるのである。じゃないとおかしいと思うぐらいに足跡やら目撃証言やらが出てくるのである。

 情報社会に流れる表面的な「イエティはクマ」というツマンネエ情報の陰にひっそりと隠れてミィティは今もヒマラヤの山中を歩いているのかも知れないのである。

 なんと素敵な心躍る話ではないだろうか。

 こういう面白い話が読めるから活字の本を読むことはやめられないし、本というものが例え電子情報になったとしても、短くまとめたネットに転がってるような情報じゃなくて、それはそれで便利だし面白いことも認めるけど、一人の著者が魂込めてガリガリと書いた長いモノガタリを読む楽しみは人間が滅びるまでは不滅だろうと思うのである。

 

<2018.7.5>

○祝「BEASTARS」講談社漫画大賞授賞! 漫画界の権威ある賞を取りまくってる感じで絶好調。なくもない事例だけど他社の賞取っちまうような才能をチャンピオンはどこから見つけてきたんだろうと思ってたら、作者の板垣巴留先生は「バキ」の板垣恵介先生のご息女だったのね。そらチャンピオンで描くわな。才能を受け継いだりってのはあるかもだけど「親の七光り」とは全く関係ないのは知らずに絶讃してたオレが保証する。これからも凄いマンガを描き続けてくれる期待大だ。

○こさぎ亜衣「あさひなぐ」26巻 こちらは昨年だったかの小学館漫画賞受賞作の激アツの最新巻で、主人公の所属する薙刀部の、怪我を抱えるエースのインターハイ出場をめぐって指導者2人が真っ向対立。どちらも怪我については拭い去れない過去を持つ。自身が怪我から選手生命をたたれた経験をふまえ「全部私のせいにして恨んでもらってかまわない」と治療に専念するよう合宿先の尼僧は諭す。でもコーチは「絶対に勝たせる」と豪語。だれもが勝負に絶対などないことは知っているにも関わらずだ。エースは迷いながらも出場を決意する。コーチから策を授けられ最初は腑に落ちないエースだったが、その意味するところを知り、コーチが怪我をかばいながら闘うことだけでなく、勝利をも全く諦めちゃいないことを、勝負に絶対などないことは知りすぎるほど知っているはずなのに、それを信じて託してくれていることを知るのである。惚れるでコレは。現役競技者時代はえげつない闘い方と強さで名を知られる猛者だったようだけど、本編描ききったら外伝でコーチ主役の「腐れくノ一激闘編」的な話を是非描いてほしいものだ。薙刀マンガなんていうサンデー系伝統のマイナースポーツモノというのも小学館らしくていい。

○夢枕獏「釣り時どき仕事」「釣り後釣り」「本日釣り日和ー釣行大全 日本編」「本日釣り日和ー釣行大全 海外編」 久しぶりに「鮎師」読み返して面白すぎたので、バク先生の釣り話読みたくて古めのエッセイが電子版になってたのでワシワシ読んでた。長良川河口堰とか諫早干拓とか先生怒りまくってて、自分のモノの考え方の源流のひとつがこのあたりなんだなと感慨深い。「愚か者の杖」とかまだ読んでないし「大江戸釣客伝」ももう一回読みたいし、しばらく活字の方は「バク先生祭り」である。

 

<2018年6月24日日曜日ブログ「ひょっとしてオレ今「こわい顔つきになってる」かな?」再掲>

 「黒水仙」「暗烏」「おろろ」「陰鉤」「黒竜」「赤お染」「夕映」「陰水仙」架空の名前も混ざっているけど、それぞれ伝統的な鮎毛鉤のあるいは毛鉤釣りの手法の名前である。

 これらを各章の題名とした小説が、夢枕獏先生の「鮎師」である。

 学生時代先輩に面白いから読んだ方が良いと薦められて「オレ鮎とか釣らんからイマイチ興味ないっス」とか答えたんだけど「鮎釣るかどうか関係なしにナマジぐらいの釣りキチガイなら多分身につまされて胸にくる部分があると思うぞ」とか言われて、なんのこっちゃ?と思いながらも読んでみたら、先輩の言ったとおりだった。

 ヤマメとかでもたまに知られているけど、ホルモンの異常とかで産卵に参加せず本来の寿命を越えても生き残り成長し続けたらしい60センチを越えるような巨鮎を狙う、鮎で身を滅ぼしつつある初老の釣り師の狂気じみた執念と、その狂気にあてられて深みにはまっていく主人公の心の有り様が、まさにこれぞ頭のおかしくなっちゃってる釣り人の典型という感じで、当時自分はまだ主人公側のつもりで共感していたけど、病み上がりの体でクソ暑くてしんどいなか鮎に向かってひたすら情熱を燃やしている今の自分は、既に鮎しかなくなった男である「黒淵」の方により近づいてしまっているのかも知れない。

 主人公が仕事もほっぽり出して鬼気迫る表情で川に通うのを見て妻は「鮎釣りに行くのに、少しも楽しそうに見えない」と夫の釣り友達に不安を漏らしているが、自分の限界に迫るようなギリギリの釣りをしているときには、外から見たら確かに苦しそうにしか見えないだろう。だって実際苦しいんだから。それは釣れなくてしんどいという肉体的直接的な苦痛もあれば、釣りにおける「壁」を越えられないとかいう精神的なものから、はてはオレはナニを釣るべきかどう釣るべきかなんていう哲学的な苦しさも時にあったりなかったりする。

 釣りで苦しむのなんてバカにしか見えないかもしれないし、楽しく釣ることはもちろん嫌いじゃないけど、どうしても私のような釣り人は昨日釣れなかった魚を今日釣りたいとかいう健全な向上心それ以上に、人よりも釣りたいとか、大きいのが釣りたいとか、誰もやってないような方法でオレだけいい目を見たいとか、ドロドロに邪な欲望が心にベットリと染みついていて、それがために、楽しく手堅く釣っとけば良いものを、底のない沼のようなややこしい釣りの世界に足を突っ込んでしまい抜けなくなるのである。

 鮎の毛鉤を巻いたりしていると、どうしても「鮎師」のいろんな場面が頭に思い出されて、読みたくて仕方がなくなり幸い「自炊」済みで検索一発でパソコンのホルダーから引っ張り出せる我が読書体制になっているので何度目の再読かわからんけど読んでみた。

 鮎毛鉤釣りしてなくても抜群に面白い「釣り小説」だったけど、鮎毛鉤釣りに手を出した今読むと、もうどうしようもなく面白くてまいる。

 漠先生、各種映像とかから釣りの技術が特別上手いという釣り人じゃないと失礼ながら思っているけど、釣り人の業というモノを、釣りというモノの持つ魔性の魅力を知っていて、これほどまでに書ける作家というのは他に類を見ないと思う。井伏鱒二先生やら開高先生よりその点では上だと思う。両文豪の書く釣りはもっと健全で恬淡で釣り人独特のドロドロッちさを描くときももっと軽みがある気がする。漠先生その辺容赦なく大げさなぐらいに重く書く。でもその大げさなぐらいに表現された心情が、我々頭おかしい系の釣り人の心の、ある面を正確におためごかしやごまかしなくとらえていると思う。

 読んでて思い出したけど、このお話の鍵になる釣法である「陰鉤」というのがあって、これが本当にあった技術なのか、漠先生の創作なのか分からんけど、いかにもありそうな裏技的な鮎の釣り方で「ベラ」の皮を使った毛鉤?に触れるぐらいに接近する鮎を下の捻り針で掛けるという方法なんだけど、学生時代読んで早速、多分ベラってキュウセンだろうと思われる表現があったのでキュウセンの皮を干して細く切ってボディーにしたフライを巻いた記憶がある。

 4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めるにあたって「黒水仙」もどきの「黒韮」とか巻いてるあたり、ホントに進歩がないというか、ナニも変わっていない自分のバカさ加減を頼もしく思う。気になったら試してみる。釣りにおいてそれ以外に答えを知る方法をいまだ得ず。

 でも4半世紀たって鮎毛鉤釣りを始めたあとだからこそ楽しめた部分も今回の再読ではあった。

 主人公が、黒淵に仁義を切って彼が狙っている大鮎を狙うとなった時に、まず得意のチンチン釣りで並べた毛鉤が「青ライオン元孔雀」「赤お染」「暗烏」「八ッ橋荒巻」なんてのを読んで、それがどんな毛鉤か頭に浮かぶとともに、やっぱりその辺りの毛鉤が定番でありつつ必殺なんだろうなとか初心者がいっちょ前に思った。

 播州釣針協同組合のウェブサイトの「播州毛鉤ギャラリー」にも、「青ライオン」「お染二字」「八ッ橋荒巻赤底」「清水」「新魁荒巻」が代表的な鮎毛鉤例として表示される。

 そういうの見てると、やっぱり巻きたくなってくるジャン。巻きたくなったら巻けばいいジャン。ということで、今使っている和洋折衷のナマジ謹製鮎毛鉤でも鮎釣れるっちゃ釣れるんだけど、巻いてみた。

 (巻いた毛鉤の解説部分は省略)

 気づけば、100本入りで頼もしく思っていたマルトのフックもそろそろ底が見え始めた。

 100本なんて1日5本巻いてるだけで20日で使い切るしたいした本数じゃない。

 そう思うと、マルトのフックの安さはとてもありがたいモノだと実感する。

 アユ釣ってるぶんには刺さりも強度も何の問題もなく実に実用的なフックで、すでに追加発注かけた。色変えて巻くのには軸が長い方が向いていると思うのでロングシャンクのタイプも試しにと注文した。

 今年は年頭に「釣りと猫のことだけ考える」と誓ったが、猫はボチボチとしても、釣りの方は本当にそればっかり考えている感じで、そうすれば自ずと健康面やらも上向いてくるはずと考えていたが、ここまで釣りのことばかり考えていて良いのか?体調よりも釣り優先させ気味だったりもして、釣りのことで身を滅ぼしてしまうような気がしてきてちょっと怖い。

 まあ、仕事も家族も友人も、健康も金も信頼も誇りも失って、ただの釣りしか持たない痩せた猫になったとしても、それはそれで本望かなと思わなくもない今日この頃である。

 釣りさえちゃんとできていれば、なんだってかまわないサ。オレたちゃそういう人種だろ?

 

<2018.6.21>

 積んであった本を着々と読了中。マンガは最近の「釣りマンガ」をいくつか読んでみたけど「釣り屋ナガレ」がまあまあだったけど他は悪くないけど釣りやらない人向けという感じでイマイチ。

○山野井泰史「アルピニズムと死」 前著「垂直の記憶」も最高だったけど、ギャチュンカンで多くの指を失っても、アルピニストとしての魂は失っていないその後の挑戦的な姿勢がこれまた最高に痺れる憧れる。スポンサーが付くような大がかりな遠征じゃなくて、自分の心が本当に登りたいと思ったら少ない装備でおのれの技量一つで時に垂直以上の壁を登る。人と交わるのが苦手で、信頼できるパートナーとのペアか単独行しかできない不器用さとそれを押し通して我が道を行ける孤高の輝き。「僕は上手くなるのが遅くなったとしても、情報が早く手に入らなくても、小さな石でもいいから一人で対峙し取り組んでいたい人間だった。」という心情の吐露には激しく同意する。ただ彼が対峙する石はとてつもなくデカい。

○西園寺公一「釣り六十年」 エドワード・グレイ著「フライフィッシング」の翻訳者であり、「ゾルゲ事件」で逮捕されたソビエト側スパイとかいう経歴をもつ元やんごとなきご身分の御仁がどんな釣りをしていたのか興味深かった。思想信条とか知らんけど、釣り師としてはこの人すごいワ。オックスフォード留学時に学んだフライフィッシングでそれこそ日本のフライフィッシング事始めである湯川のパーレットマス釣ったりとかも歴史を感じさせて凄いけど、磯釣りだろうと中国での釣りだろうと、その場その場の現地の釣りを取り入れつつ自分なりに工夫を凝らして釣っていく姿勢とかただもんじゃないし、キャッチアンドリリースなんて言葉がないので「放生会」という表現で、必要ない魚や小さい魚を逃がしてやるなんて、今でも食い切れもしない魚をクーラー一杯詰め込んで喜んでる程度の低い釣り人が多いのにと感心させられた。釣りなんていうのは古今東西変われば変わるほどいよいよ一緒で、どんな時代にもどんな国にもクソみたいな釣り人もいれば釣聖も居るということか。

 

<2018.5.30>

○角幡唯介「漂流」 読みたいと思ってとっておいただけあって面白いのが続く。今回自身の冒険の旅の話じゃなくて、沖縄のマグロ漁師の漂流経験について取材して書いてるんだけど、もう取材始めると事実は小説より奇なりな感じの怒濤の展開が待ち受けていて、どこに着地するんだか全く分からなくなる。でも丁寧な取材で掘り起こしていく、沖縄のかつおまぐろ漁業の歴史的な背景とか、仕事でも関係した世界なのでメチャクチャ興味深く、まさに「オレ向き」な感じのエンタメノンフで、海の世界で生きていく漁師の心の持ちようにまで迫る考察とか、凡百の記者にはたどり着き得ない境地でさすがは角幡先生と唸らされた。まだ読んでない「極夜行」も楽しみだ。

○竹中由浩「マイナーリールの紳士録3」 TAKE先生のリール本が出たら読まねばなのでサクッと読んだ。相変わらず面白くてためになる。今回ルアーもちょっと紹介されているけど、ブレットンとかセルタとかコンデックススプーン、ハスルアーと好きなルアーが多くてこれまた楽しめた。2004〜2015年に雑誌に書かれたものをまとめたそうだけど、この本で頑張っていると紹介されている、コータック、ウエダあたりがもうないことに釣り具業界の末期的な有様を思わずにいられない。

 

<2018.5.5>

○星野博美「こんにゃく屋漂流記」 やっと長い活字モノが読めるようになってきた。紀州の漁師が房総に移り住むようになった歴史的な話とか非常に興味深かったんだけど、この人の先祖のルーツを追う物語になっていてお父さんの代が経済成長期に東京に出てきて町工場をというこれまた歴史の流れを追っている部分が町工場にあんまり興味ないので積ん読になってたのを、思い切って興味ないところをとばして読んだ。江戸の昔に激戦区の瀬戸内海紀伊水道から新天地を求め、ちょうど綿花栽培が盛んになり肥料原料としてのイワシが求められる中、黒潮に乗って房総半島まで遠征し時代の最先端をゆく漁法で穫りまくり、その一部が住み着いたとかいうあたりの歴史ロマンが楽しめた。しばらくリハビリで一番好きな海関係と冒険関係を読んでおきたい。

○阿部共実「月曜の友達」 2巻でたので読んだら完結だった。阿部共実はいったいなんなのか?他に似たようなマンガ家が見あたらない特別な才能を見せつけてくれる。そのみずみずしく詩的な台詞回しと独特の純粋な登場人物たちは、その表現は、どうやって身につけたのか?才能だと言ってしまえば簡単だけど、ちょっと人と違ったり流行とずれてたりしてると冷遇されるようなこの世の中で、自分独自の感性や美しいと思う言葉を守り抜いて育て上げたひたむきさを想像すると、よくぞここまでと感じ最大級の賛辞を送らざるを得ない。今作は学校を舞台にしたちょっとファンタジー色のある友情というか恋の物語なんだけど、色恋沙汰の生臭さを全く感じさせない、少年少女が学校で魅せる心の機微の美しさを純度高く描き出して、干からびかけたオッサンの心にも素晴らしい感動で暖かな潤いを与えてくれる。驚くぐらいの傑作です。

○相田裕「イチゴーイチハチ!」5巻 学校舞台といえば新刊でた今作もよかった。前作「ガンスリンガーガール」は傑作だったけどちょっと癖のある作風で、そういう特殊なマンガ家だと思ってたけど、認識を改めざるを得ない。王道の学園青春群像劇がアンズ飴のように甘酸っぱくて素敵。でもヒロインは背の低い女の子で、そこは性癖隠そうともしない潔さも良い。性癖隠そうともしない系では「あんアンドロどろ」も馬鹿臭くも面白かった。

 

<2018.4.14>

 小説はぼちぼち電車の中では読めるようになってきた。マンガは調子出てきてたまってた新刊読みまくり。祝アニメ放送スタートな「ゴールデンカムイ」「ヒナまつり」は新刊も絶好調に面白い。その他で印象残ったのは連載終了もので、兵器化したマッチョの肉弾戦をバカバカしく描いた「ゴロセウム」、洗脳して神の子を作る修道院からのはらはらドキドキの脱出劇「煉獄のシュベスタ」、壮大なSF設定のダメ人間スペースチンポオペラ「ムシヌユン」、毎回趣向を変えての小劇場「隣寸少女」、伊藤リサ先生の鋭い人間観察力が生きた日常系短編もついに終幕「おいピータン!」。もっと読みたかったぐらいだけど、そう思うぐらいにきれいに終わるのもまた良しか。と思ったらピータンはすぐ続編始まる詐欺らしい。他の作品はなぜが全部6巻で終了。終末旅行も全6巻だったし6巻だとアニメ化するときに、2話で一巻消化して12回でとか都合がいいとかあるんだろうか、単なる偶然か?終わる作品があれば始まる作品もあるので面白いの探しあてるの楽しみにしたい。

 

○2018年3月31日土曜日 ブログ再掲

「永遠が踏まれたオルゴールを引っかけるためのかまぼこ」

 不調である。釣りの方は実はそれ程気にしてなくて、今は不釣でも腕を上げつつある過程であると思えていて、ほっときゃそのうち釣れ始めるだろうぐらいにのんびり構えている。とまでは達観できてないけどまあなるようにしかならん。

 危機的に調子悪いのは読書の方で、昨年末ぐらいから特に小説が読めなくて、ちょっと読み始めてもすぐに集中力が切れてしまう。マンガとラノベも今一で長時間読めないけど何とか出た新刊ぐらいは読み進めている。読みたくて、ある程度面白いだろうことが予想できる本が端末に落としたまま何冊もたまってしまって積ん読状態。

 このまま小説が読めなくなったらどうしよう?積んであるのはもちろんこれからも面白い小説なんていっぱい書かれるはずなのに。

 なにか調子を取り戻すいい方法はないだろうか?

 一番良いのは、ページをめくるのももどかしく読み進めざるを得ないような一気読み系の読まずにいられない小説を読む。と、考えた。読まずにいられないんだから読めるだろう。

 でもそんな小説あるんならとっくに読んでるって話で、簡単に見つかるわけがない。

 ンンッ?とっくに読んでるって?だったら読んだことあるやつをもう一回再読すれば良いジャンよ。と思い至った。

 小説を読む楽しさを知ったのは、中学生ぐらいころだったように思う。以降、最近はマンガの比率が増えてて読む量減ったけど、よく読んでた頃は年間100冊ぐらいは読んでたと思う。面白いと何周も再読したりするので単純に100冊かけることの読んだ年数ではないにしても千をくだらない小説を読んできたはずで、その中でもっとも面白い小説をとなると選ぶだけでも一苦労である。

 今まで読んだ中で最高の小説をと考えると、「人間失格」「夏の闇」「ザ・ロード」「アラスカ物語」「コインロッカーベイビーズ」「新興宗教オモイデ教」「1984年」「老人と海」「水域」「勇魚」あたりがぱっと思いつく。

 このあたりからも既に傾向と対策が透けて見えて、なんというか文学でもロシア英国あたりの教養の香り漂う作品じゃなくて、SF系と無頼派というか穀潰し系というか、お行儀の良くない方が好みのようである。あと、やっぱり海が好き。

 最近の作品だと「沼地のある森を抜けて」「パンク侍、斬られて候」とかすばらしいと思った。前者はSF臭というか科学の臭いがするし後者はタイトルからして無頼派で格好いいし作者も格好いい。

 「自伝的青春小説にハズレなし」は本読み仲間のケン一の格言だけど「青春を山にかけて」「早稲田三畳青春記」とか確かに名作めじろ押しだ。 

 あと気が狂ったように一つのことに打ち込む人間の業を書いた作品というのも胸に刺さってくる。「鮎師」読むと他人事とは思えないし「世界ケンカ旅」の超絶っぷりは痛快至極。

 でもまあ、面白い最高の小説っていったら、私にとっては中島らも先生なんである。  

 よし、久しぶりにらも先生の小説を読もうと思って、やっぱり「今夜、すべてのバーで」だろうなと、何度目になる再読か分からないぐらい読み返しているけどまた読んでみた。

 面白い。最高。

 さすがに徹夜一気読みとは行かなかったけど、3日ほどで読了。

 人生最高の小説は現時点では「今夜、すべてのバーで」でゆるぎない。

 なにが面白いって、まあ読めば分かる人は分かるだろうから読んでくれなんだけど、今回改めて唸らされたのは、言葉遣いの感性のどうにもならない趣味の良さで、作中でも触れられてるけどダダイズムやシュールレアリズムの作家や詩人が好きで愛読していたというあたりがしのばれる、退廃的で醜悪なのに美しく尊さを感じさせる流れるような言葉の連なり。

 らも先生のそのへんの言葉選びの秀逸さを端的に例示するなら「永久も半ばを過ぎて」という格好いい小説の題名だけでどんぶり飯おかわりできる。

 ネットで一番格好いい小説の題名は何かという話題になったときに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」とかの海外SF勢が席巻する中でも必ずといって良いぐらいに上がってくる。

 大槻ケンヂ先生もエッセイでこの題名について激賞していた。

 これで中身がショボければしょうもないんだけど、もちろん中身も面白い。確か若い頃のケン一が読んだあとに「オレも小説とか書けるようになれたらなと思わんこともないけど、こういうの読むと無理やと思うな。上手すぎる。」と言ってたように記憶している。

 オーケン先生に至っては、らも先生の文体を盗みたくて、小説一冊丸々書き写したそうである。後にらも先生本人に「大槻君、僕の小説お経とちゃうねんで」とたしなめられたそうである。

 まあ、そのぐらい素晴らしく、人間失格系のひねくれた人間には堪えられない妙なる響きの言葉を紡ぎ出しやがるんである。

 もともと広告屋のコピーライター出身で、言葉一つ一つの吟味には気合いが入っているように感じる。そのあたりは開高先生とも共通点が多いようにも思う。

 例えば対義語を並記する文体とか似ているといえば似ている。

 ただ開高先生の言葉使いは、「静謐にして豪壮」とか、文豪らしく重く堅く「豪奢」な感じがする。なんというかほのかに漢詩の匂いも漂ってくる。

 対してらも先生の言葉遣いは詩を感じさせる。

 今回読んでてうまいなと唸らされた表現に「天使の翼と悪魔の羊蹄を持った女」というのがあったけど、女性の内包する矛盾した二面性を表現するのに天使と悪魔を持ってくるのは、さらに天使について翼を持ってくるのはどこの馬の骨でもできる。

 でも「悪魔の羊蹄」は書けん。

 間抜けなら「悪魔の牙」とか陳腐なことを書くだろうし、頑張って「悪魔の顎(アギト)」でも中二臭いだけだし、なんからも先生を上回るような格好いい言い回しがなかろうかと考えても「悪魔の尻尾」とおちゃらけて滑稽みを出すのが精一杯な感じである。

 悪魔といって、三つ叉槍を片手に尻尾ぶらぶらさせている今時な悪魔じゃなくて、悪魔崇拝のサバトで呼び出すような、頭と下半身が山羊の本場欧州産の本格的な悪魔を連想させるのに「ひずめ」はこれしかないという言葉だと感服する。悪魔崇拝のはびこるような時代の欧州の退廃的な文化の香りと半獣の悪魔の不気味さを表すのに、逆間接の山羊の脚を持ってくるのは、傑作SF「ハイペリオン」の中で巡礼者の一人である詩人が脚を山羊の脚に改造しているというのと相通じるものがあり、その山羊の脚でも象徴的に一言で切って落とすなら「ひづめ」となるだろう。

 と読んでて思って、今回ネタにして書こうと思って「ひずめ」と打って変換すると「蹄」は出てくるけど「羊蹄」は変換候補に出てこない。

 「羊蹄」は北海道の羊蹄山の「ようてい」か植物名の「ギシギシ」としか普通は読まないようだ。

 でも言葉の流れからいって「ひづめ」と読むのが自然で、よしんば「ようてい」と読んだとしても意味としては「ひづめ」で間違ってないと思う。でも、なんで「蹄」じゃなくて「羊蹄」としたのかというのをつらつら考えてみたら、たぶんらも先生が愛読していた詩に「悪魔の羊蹄」っていう言葉があったんだろうなと、改めてらも先生の教養に憧れを覚えるとともに、翻訳者が「蹄」じゃなくて「羊蹄」としたのは、悪魔の脚が山羊の脚なんだというのも想起しやすかろうと選んだのか、あるいはギシギシの漢名である「羊蹄」の元々の語原に羊の蹄的な意味があるのを知ってて使ったか、いずれにせよこれまたその教養というか言葉選びの巧みさに感心するのである。

 言葉ってことほど左様に面白くて味わい深くて、その言葉で積み上げた小説っていうのも、やっぱりどうしようもなく面白いと、最高に面白い小説を読んで再認識したところである。

 これからも面白い小説を読みたい。と思うと同時に、私にも「天使の翼と悪魔の羊蹄を持った女」ぐらいの格好いい一言半句が書けたならどんなに素晴らしいだろうと身悶えする。お気楽ブロガーの身には高望みに過ぎるとしても、なんとかならんもんやろかと思う。

 たくさん読んでたくさん書くしかないんだろうなと思うので、10年書いてきたし、ちょっと面白いことを書き続けて、良い言葉が降ってきたら逃さず書いちまえるようにしたい。

 

□2018.03.31 Sat    俺の読書雑文(byケン一)

 「今夜、すべてのバーで」、生涯最高とナマジが言うのでめちゃくちゃ読み返したくなって本棚探しまくるけど見つからず。 どこかにあるはずやなのに見つからない悶々とした気分。

 夏の闇も、勇魚も読んだ当時感動した記憶だけはあるけど、内容に関してはすでに曖昧になっていてオノレの記憶力の悪さは分かっちゃいるけど改めて情けなくなる。

 ザ・ベストは決められそうにないけど、頼りない記憶を手繰れる範囲でベスト10とかを考えてみた。

 記憶に新しくて何度も再読しているのは「神々の山陵」と「凍」の山関係二作品。 小説とルポの違いはあれどどっちもヒリヒリするような臨場感が山部外者のオレでも痺れた。

 自伝的青春小説にハズレなし、とは言った本人忘れていたけどよくそんなセリフ覚えてたな。

 「69」は読んだ時期が我が青春期でもあったし自伝的青春モノではベスト。「若き数学者のアメリカ」とか「羆撃ち(Iちゃんが狩猟免許取ったとかでお勧めしたので自分も今日再読したばっか)」あたりは間違いない。「羆撃ち」は生涯ベスト30には間違いなく入る。

 村上龍では「5分後の世界」と「半島を出よ」か。

 読書体験、という観点も加えていい想い出なのは、ナマジに教えてもらった「サウスバウンド」を石垣島へ行くのに合わせて読むの我慢して、現地のホテルのベランダで読んだこと。

 ベランダで読んだといえば、ハワイのホテルで読んだ「脱出記」も人生ベスト10入りかな。

 紹介したことあるのばっかりやけど、「深夜特急」、「大地の子」、「ボックス」「シャンタラム」あたりが記憶に新しい。

 「1984」「新興宗教オモイデ教」は読んだことないので早速読んでみるわ。

 

 

<2018.3.22>

 小説が読めない。この冬、読み物全般的に不調で、読み始めても集中できずに放置してしまう傾向にあり、積ん読状態の小説とかゴロゴロしている。マンガはなんとか新刊でた分ぐらいは消化しているけど、そんな中でも電子版発売日に予約しておいて一気に読んでしまうような楽しみにせざるを得ない作品もあったりする。

○岡本倫「パラレルパラダイス」はまさにそうで、3巻でるのも待ち遠しく読んだ。物語は3千年にわたり男がいない異世界に飛ばされた主人公の陽太が美少女たちと「呪い」を解くために活躍する冒険物語。って書くとまともそうに感じるかもだけど、美少女たちはいざ男が現れたときに逃さないようにか、男が触れると発情してビュルビュルッといい匂いのする麻薬的な汁を分泌しながら「交尾」を迫ってくるとか、頭の悪いエロマンガそのもので、こんなエロマンガの新刊が待ち遠しいなんて、アタイ悔しいっ!という感じなんだが、これが凡百のエロマンガにはないっていうか普通の冒険マンガの名作でも滅多にみられないぐらいの、主人公のかっこよさや、謎めいた物語、友情やらギャグやら、奇才岡倫先生の超越した才能を存分に楽しめる作品となっている。「この世界じゃ女の子を助けるのにいちいち理由がいるのか?」という格好いい台詞を決めるその主人公の同じ口から「はあっ、乳首に吸う以外の何の用途があるんだよ、あとはせいぜいおっぱいの賑やかしだ」と吐かれることのギャップ。これだけ面白いと、こんなエロマンガを年間ベスト3で公表しなければならなくなる危険があぶない。まあ面白かったんなら堂々と紹介すればいいんだろうけど、ちょっぴりと恥ずかしいので、この作品を越える作品を3つ見つけたいところだ。

○つくみず「少女終末旅行」6巻完結 アニメ化も良い感じで楽しめた本作、終わるまでは終わらない物語の終わりが来て6巻で完結である。寂しいが仕方ない。巨大な構造物を残して滅んだ文明の跡地を少女二人が軍用荷台付きバイクのケッテンクラートに乗って、あてどなくユルユルとさまよい旅してきたこの物語も感動の終幕を迎えた。だんだん物資も乏しくなっていき相棒のケッテンクラートも務めを終え、本当の終わりが近づいてくるなかで、2人はいろんなことを考えたり考えなかったり。日常系マンガにも通じるようなほのぼのとした日々の中に、生きていくことや人間というモノはなにをしてきたのかとか、かなりさりげなく深く考えさせられる。悲壮感とかに乏しいほのぼのとした味わいなんだけど、でも寂しい終末の寂寥感とそれでも生きていく人間の日々の営みのたくましさとを感じさせてくれた。欧米の文学好きが、終末モノとして「ザ・ロード」を自慢してきたならば、日本にはマンガがあって「少女終末旅行」や「BLAM!」は良い終末モノなんだぜ、と教えてやりたい。これは、堂々ベスト3候補だな。

 

<2018.2.19>

 読み物関係本格的に調子悪く活字モノは読み始めて放置してあるのが蓄積してきた。マンガも面白かったのの再読が多い。そういう中でも一気に読める面白い作品ってあって活字では川原礫「アクセルワールド22巻」が古き良き少年マンガのバトルモノの乗りのラノベでオッサン何も考えずに読める。マンガでは3巻出た「堕天作戦」がどうにもこうにも面白いSFマンガなんだけどそれ程評判にもなってなくてもどかしい。高度な文明が起こした最終戦争後の世界という設定はありがちっちゃありがちなんだけど、そういう設定は基本書式として当たり前に盛り込んだうえでの、それぞれの登場人物の物語が織りなす群像劇の妙。ウェブ連載らしく刊行ペース遅めだけどペース守ってで良いのでこの精度のまま最後まで描ききって欲しい。

 

<2018.1.26>

 年末ぐらいから、小説もマンガもいまいち集中して読めていない。ちょっとマンガの新刊もたまってしまっている。小説はラノベも含め読みかけて放置してあるのがいくつもある。マンガはだいぶ読めるようになってきたのでマンガから消化していこう。 

○伊藤伸平「キリカC.A.T.s」全3巻 完結したけど、ネット配信の作品らしく1巻ごとにまとめて買うか1話ずつ買うか選べる方式だった。できれば一気に読みたい派なので1巻ごとにまとめ読み。前作「まりかセブン」が女子高生がウルトラセブンみたいに巨大化して戦う話だったけど、今作は婦警さんが特殊スーツ着てバイクに乗って戦う仮面ライダー的な話なんだけど、何というかきっちり少年マンガの文法を押さえて面白い作品に仕上げてくる職人芸的な技量に好感が持てる。ギャグも面白いけど、落差がきいて登場人物の格好良さが引き立つ。ヒロインが煙草格好良くくゆらしたりして割とハードボイルドで良い感じなのである。もっとメジャーな紙媒体で描いても良いように思うのだけど今時の流行にあった作風ではないのだろうか。次回作も期待したい。

 あとは新刊出てるのいろいろ消化したけど「ベイビーステップ」がなんか中途半端なところで打ち切りエンドみたいになってて残念、面白かったのに。新しく始まったのでは「ここは今から倫理です」が面白かった。ラグビーマンガ「オールアウト」の雨瀬シオリ先生の新作。

 

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