○先立つ不孝を許しません

 

 ニュースで平成23年度版の「自殺白書」の内容が紹介されていたが、泣けてくる内容だった。年間の自殺者の総数は3万人超で高止まり。その中で特に20代、30代の死因の50%以上が自殺で、就職失敗による自殺はここ3年ぐらいで3倍近くに跳ね上がっているとのデータに暗たんとした気持ちになった。

 

 なぜ人は自殺するのだろうと考えるとき、まあ、鬱病のような精神的な疾患で発作的にというのもあるだろうが、要するに生きていても幸せになれる展望が抱けなくなったときに、生きる価値を見いだせなくなり死を選ぶのではないかと思ったりする。もちろん、そんな画一的で単純なものではないと思うけれど、それほど間違っていないような気がする。

 

 確かに、今の若い人達を取り巻く厳しい社会状況や、生活習慣等の変化による孤独な若者像を思うと、死にたくなる気もわからないでもない。

 就職は超氷河期といわれ、大学出ようが院卒だろうが、特別な高い技術でもないかぎり、多くの普通に優秀な若い人が、正社員として就職できず職にあぶれている。

 しかも、一度新規卒業のタイミングを逃せばさらに就職活動は難易度を増すとか。

 運良く、正社員として雇われたとしても、どこぞのネットの無名の住人がうまいこと言った「日本には過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」に如実に表されているように、サービス残業当たり前、良い意味での終身雇用や会社人間が一昔前の話となって首切りにおびえる今、たとえ正社員でも若い労働力は使い捨てで、消耗品のようにこき使われている実態がある。

 

 当方も若い頃に、その年の月平均残業時間(休日出勤含む)が90時間以上という年があった。8時間労働で普通に月20日働いたら160時間だから、1.5人分以上働いていたことになる。そういう長時間の労働をしている人間は特別ではなく、当方よりも過酷な残業実態になっている人も珍しくなかった。ワークシェアリングとかいう言葉もささやかれ始めていた時勢だったので、当方ともう一人忙しい人の分の仕事を割り振りして、新たに一人雇用して3人で仕事をすれば、3人とも定時に帰れるのになぜそうしてくれないのか、雇用側はバカなのかと考えたりもしたが、実際には人を1人増やすと、単にその分の給料を払うだけでなく、その人のためのデスク、PC、職場スペースから社宅を用意したりと福利厚生にかかる経費までもが増えたりするので、3人で定時できる仕事を2人が残業してこなした方が経費がかからないから雇用側はそうしているのだと理解して絶望した。

 それでもまだ我が職場は残業代がでるので極めてマシな方である。これを日本の極悪な労働習慣「サービス残業」で済ますことができるとすれば、雇用者側とすれば3人目を雇うことなどまったく検討の対象にすらならない馬鹿馬鹿しい愚行と考えるだろう。

 労働者よ怒れ!少なくともサービス残業なんて実態があったら「労働基準局」にチクってしまえ。会社がつぶれようが何しようが、そうして腐った悪習をやめないかぎり、過労死も無くならなければ、ワークシェアなんていう簡単なことさえ実現しない。

 それだけ労働者をこき使っていても、リストラ、倒産当たり前。この国の経営者やら政治家やらは何をやっているの?

 当方が過酷な残業にヒーヒー言っていた、まだそこまで景気の悪くなかった時代でさえ、1人あたりの国民総生産だかが、イタリアとかフランスとか昼飯時に優雅にワイン飲んで残業なんて「ノン!」と言ってそうな国や日が長い季節には仕事後に外でスポーツや趣味を楽しんでいるという北欧の国に負けていて、なぜ労働者が体壊しそうなぐらい働いているのに、そんなに生産性が低いのか理解に苦しんだ。経済界、政府、政治家、よほどのマヌケ揃いだと罵倒せずにはいられない。

 

 良い大学を出て良い会社に就職すれば幸せになれるなんて幻想は今や崩れ去っている。

 

 そんな状況に背を向けて、将来は不安だけど、非常勤雇用やアルバイトのフリーターで夢を追ったり趣味を楽しんだりしながら楽しく生きていこうと割り切って思えるなら幸せだ。腐った社会構造に反旗を翻して非生産的かつ幸せに若者が生きてくれるなら、心の底からの賛辞と拍手をおくりたい。

 

 でも、多くの若者は、先行きの漠然とした不安はあるけれど、生きる希望になるような楽しみや、人間関係を、便利になって何でも手に入るようになったわりには見失っているように見受けられる。

 部屋に引きこもり、ネットの前で匿名で意見を書き込んでいることだけが他者とのつながりというステレオタイプの若者像が頭に浮かんでしまう。

 明日発売の漫画が楽しみで生きたって良いし、死ぬときに悲しむ友がいるのならそれだけでも死なない理由になるのにと思う。

 

 大学時代に所属していたソフトテニス部では、年一回成績報告も兼ねた「文集」を創るという伝統があり、各自エッセイやら、趣味の話やらを書くのが通例で、加えて各学年で1品、別に企画ものを出せというお題があった。何を書いてもよくて自由にやって良いということなので、我が学年分は当方が受け持ち「世界で一番幸せな人、世界で一番不幸な人」を部員に聞き、その答えから各メンバーのキャラクターを浮き彫りにし、時に意外な回答に感心したり、時に洒落の効いた回答にうけたり、というような企画を実施した。

 中には「世界で一番幸せなのはオレの彼女、世界で一番不幸なのはナマジの彼女」というはなはだ不愉快な回答もあったが、「子供を授かった仲の良い夫婦」、「たくさんの子犬たちにかこまれた状態」等々、なるほどそれは幸せだろうと思う心温まる回答が、意外なヤツから出てきたりして面白かった。ちなみに当方の当時の回答は「世界一幸福なのは、世界で一番自分が幸せだと信じて疑わない精神病患者」、「世界一不幸なのは、世界で一番自分が不幸だと思い込んでいる精神病患者」というものだった。若い頃のオレも多少ひねくれていたようである。

 幸せに関連して、楽園論として中島らもが「そこに好きな人たちがいるところ、守るべき人がいてくれるところ、戦う相手のいるところ。それが楽園なのだと思う。」とエッセイで述べていたが、いずれにせよ、幸せというのは金や地位や名誉とは、まあそれがあったからといって邪魔にはならないものの、あまり関連が無く、むしろ人との絆や自分の中で挑戦すべきものがあるかとかといったことの方が重要だというのが多くの人の偽らざる心の中であると当方は信じている。

 

 お金はたしかに大事だ、生きていく上で衣食住を確保するにもなにがしかのお金がいる。その安定的な確保手段である正社員の座をゲットできれば、普通にマンションなり田舎なら家なりを買って、人並みにオシャレをして、メタボを気にしなければならないぐらいの食事を楽しんで、結婚し子供を育て家族をもつ喜びも得ることは難しくなかった。

 かといって、そういう安定した職に就けなかったからと言って、そういったステレオタイプの幸せな家族を築けなかったからといって、必ずしも人生負け組でその人生が生きる価値もないものだと自ら決定づけてしまう必要があるのだろうか。

 当方はそうは思わない、不安定なアルバイト収入しか無く収入が少なくたって、友達もなく一人で孤独でも、自ら死ななければならないほど惨めな人生であるとは限らないと思う。

 

 貧乏なぐらいで死ななければならないとしたら、世界中にあふれる貧民はみな死ななければならないが、実際には悲惨な運命としか言い様の無いような虐げられた人々でも、たくましく生きている人達はいる。お金がないことを理由に死なないでくれ。

 河原にブルーシートハウスを造って住んででも人は生きていくことはできる。釣り場でブルーシートハウスの住人達を見かけることは結構あるが、幸せそうとまでは見えないが、かといって単純に不幸だとも思いかねる。ペットの猫と戯れていたり、仲間と麻雀していたりとそれなりに楽しい日々もあるように見受ける。何より朝の通勤ラッシュと無縁でいられる首輪の付いていない自由さには正直あこがれる。自分が、職も金も相方も信用も友達も無くしたとしても、ああやって生きていくという方法はあるのだなと思うと心強い。

 

 一人で孤独に生きていくのは確かにつらいだろう。自分に誰も悩みを打ち明ける相手や馬鹿話をする相手がいなければ、どんなにつらくつまらない人生かと思う。

 とある精神科医の書いていた、自殺を図った鬱病の独居老人のエピソードは悲しくてやりきれなかった。

 再度自殺を図ることのないよう説得する医師に老人は「この年で身よりもなく職もなく、精神を病み楽しいことなどこれからあるとも思えない。死んだとしても悲しむものもいない。それでも先生は私が生きることに何か意味があると思うか?」と問うたそうな。医師としては「私は医師であり、患者の命を救うためにいる。たしかに意味があると軽々に断じることはできない。だからといって自殺を認めることなどできないとしかいえない。」と答えるのが精一杯で、人間関係が希薄になった社会構造の中、今後もこういう患者が増えることにどう対処すればよいのか答えを見いだせないでいるようだった。

 そうならないように、若いうちから心を開いて人に接し、友や伴侶を手に入れておけと、他人がいうのは簡単だが、人と交わるのが苦手な人間にはそれは難しい注文だ。当方も人とのコミニュケーションは苦手なタイプなのでよくわかる。人に心を開いて裏切られたりバカにされたりしたらどうしようという恐怖は、そんな思いをするならオレは一人で生きていたいと思わせるに十分な怖さだと思う。

 そういう人間でも、何らかの組織に所属していれば、気にもかけてくれる人はいるだろうし、薄い関係だとしても仲間はできるはずだ。

 生まれた地域で生きていくなら、地域社会が多少人付き合いが悪いぐらいの人間なら、本人がウザく感じるぐらいにかまって理解してくれるだろう。「アレは偏屈で人付き合いは苦手だが、悪いやつじゃない。行事の時には誘ってやってくれ。」そう思ってくれる人がいるだけで、自分の居場所が確保されているだけで死ななくてもすむ場合は多いのではないかと思う。

 昔の良い意味の村社会的な仲間意識のある職場なら、ともに愚痴を言い合う仲間ぐらいできただろう。

 それが、今地方は景気が悪くて仕事が無く、若者は職を求めて都市部に出てくるがそれでも正社員にはなかなかなれずに、アルバイトで糊口をしのぐことになる。どこに仲間がいるというのか、どうやって友達を作れというのか。

 地元に帰れば古い友人くらいいるだろうし、大学卒なら在学中にできた友人もいるだろう。ただそういう友人達も自分の家庭を持ち、新たな組織に所属するようになれば多くは疎遠になっていくだろう。

 当方には、釣りという趣味を通じてずっと仲良くしてもらえそうな友人達がいる。それはラッキーで幸せなことだ。でも、釣り関係を除いてしまえば、昔の友達とは年賀状のやりとりで近況を報告するぐらいで、懐かしいかけがえのない友ではあるが、既に自分の人生には直接的な関係性はなくなってしまっている。

 都会で、就職に失敗した若者が、孤独に陥ってしまう状況はありありと想像できてしまう。

 そうだとしても、孤独になったとしても、死んでくれるなと若者にいいたい。

 どんなに孤独になったとしても、自分をこの世に生んでくれた両親がいる、もしくはいたことを思い出して、その人達が悲しむようなことはしないでくれ。

 「オレは捨て子だ」、「親には虐待をうけていた」というヤツもいるかもしれない、それでも今まで生きてきたのなら親代わりに育ててくれた人がいるはずだ。その人の悲しむようなことをしないでくれ。

 それでも孤独にさいなまれることはあるだろう。そういうときはとりあえずネットだネット!

 もし、実名やら個人情報をさらす勇気があるなら、今時はいろいろな種類の出会いを取り持ってくれるサービスがあるらしい。これ幸いと利用すればいいじゃないか。何もかもが無くなってしまったと嘆いていてばかりでもしょうがない。新たにできた人間関係構築のアイテムを大いに利用してくれ。まあ上手い話にだまされないようには注意してくれ。

 そこまでするのは面倒だと思ったら、匿名の掲示板やらで言いたいことを書き殴ることでも、薄くても間違いなく人との関係は生じる。匿名の掲示板を指して「便所の落書き」という批判もある。それでも便所の落書きにも、同じ孤独を味わっている人間との連帯感や、たまに目にする名もない人の名言に感動したり楽しませてもらったりもする。

 部屋にこもってネットしかやらない孤独な若者像そのものかもしれないが、ネットすらやらないよりもずいぶん違うと思う。

 自殺関係でネット上の有名なやりとりである、

「56:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/07/05(木) 08:10:24.60

 生きててもさ、無駄なんだよ、俺。

 きっと何しても上手くいかないんだよ。

 ただダラダラと生きててさ。

 いっそ本気で死んじまおうかな。

 

 58:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。2007/07/05(木) 08:12:48.05

 死んでもいいけど。とりあえず、自分のレスを縦読みだな。

 自分の心の声に気付いてやれよ。

 

 60:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/07/05(木) 08:14:34.40

 …もっかいバイト探して見る。

 ありがと。                                                                              」

 

なんてのが目に入ったなら、この世も捨てたもんじゃない。自分も生きてみようと思うのではないだろうか。

 

 もし、努力しても仲間も絆も得られなかったとしても、それでもそんなに悲観的にならなくてもいいと思う。ぶっちゃけ、人との絆を礼賛してきたが一方で人間なんて誰でも孤独なものだとも思う。良い友達や伴侶に恵まれたとしても、自分を完全に理解してくれる人なんて、いない。そう思えば気が楽だと思う。

 その孤独な、場合によっては自分自身にさえ理解されないような、そんな人間が生きていくためには、結局、人生を幸せにするような楽しみやら目標やらを見つけるしかないと思う。

 なにもモノを買わせて儲けることしか考えてないようなクソどものつくった価値観に従って、良い家に住んで、良い車に乗って、良いもの食って、いろんな便利なモノを買ってなんてことを目的にしなくても良い。むしろそんな腐った価値観に反逆して、金のかからない楽しみを見つけていって欲しいと思う。

 中島らもも「戦う敵がいる」ことを楽園の条件にあげているぐらいだ、腐った世の中が悪いと思うならそれと戦えることに喜びを感じてくれ。金なんて無くても楽しく生きていくこと、自分だけの幸せを見つけてクソどもにザマミロと言ってやること。それが君の聖戦だ。

 

 ネットするにも金がかかる、何が楽しいのか、何に自分が興味あるのかわからない、というヤツにはとりあえず、散歩と読書を勧めておきたい。

 人生の快楽において「旅」は最上級のものの一つだと思う。自分の見たこともない世界、知らない物事、初めての経験、すべてが面白く、自分を成長させてくれるし、たくさんの宝物になるような思い出が土産に付いてくる。その旅のもっとも原始的かつ簡単で身近で、かといって旅の楽しみ自体は間違いなく味わえるのが散歩だと思う。

 当方は竿を持って、自転車に乗ってだが、近所の川縁をふらふら行くのは、何10万円と費用をかけた遠征釣行の旅と比較しても、なんら遜色ない面白さにあふれている。魚が釣れればもちろん釣り人だから嬉しいが、釣れなくても猫をかまったり、季節の移り変わりを河原の植物で感じてみたり、ペットのカエルへのお土産にバッタを捕まえてみたり、吹く風が気持ちよかったり、いろいろと思い悩んでみたり面白いことはいくらでもある。とりあえず暇があるならふらふら歩いてみればいいと思う。犬も歩けば棒に当たる。なにか面白いことがあると思う。

 読書については、いまさら当方がその魅力をどうこういうのも野暮なぐらいで、人が文字を使い始めた頃から未だに愛され続けている楽しみだ。本は金があれば買えばいいが、なくても図書館という手がある。古今東西書かれてきた本の量と言ったら大変なもので、きっと、生きて巡り会えたことを感謝するような本がどこかで読まれるのを待っているはずである。吾妻ひでおの傑作漫画「失踪日記」で作者がホームレスをしている時代にも図書館の本を読んでいたというエピソードを読んで、図書館という制度のすばらしさを再認識した覚えがある。

 とりあえず本を沢山読んでいくと、いろんな人のいろんな考え方や、この世の中で起こっていることのからくりやら、問題点なんてのも浮き彫りになったりわかった気になったりする。興味の引かれる面白そうなことにも本を通じて出会えることもある。自分の戦うべき相手が何者か、そのための方法は何か、図書館に通うだけで見えてくるかもしれない。タダでいくらでも楽しめる「読書」などという楽しいことがこの世にはあるのに、死んでしまうなどというのはもったいないことである。

 

 当方の愛する「釣り」も興味があるならやってみると良いと思う。メーカーはなんだか高い道具を買わそうとしてくるけど、800円の延べ竿で手長エビ釣っても面白いし、300円のロッドでフッコ釣っても面白い。金なんてなきゃ無いなりでいくらでも面白くできるはず。そういうやり方なら当方のサイトにはいろいろヒントを載せてきたつもりだ。問い合わせや相談もウェルカムだ。

 

 とにもかくにも、自殺を考えている若い人には、ちょっと待ってくれと言いたい。とりあえずその「死んでしまいたい」という気持ちが、本当に自分の気持ちなのか、鬱病という病気がそう思わせている偽りの気持ちなのか、まずは精神科か心療内科で診察を受けて、病気なら速く適切な治療を受けて欲しい。

 病気じゃないけどやっぱり、定職にもつけないし孤独だし「死にたい」と思ってもやっぱりちょっと待ってくれ。上に書いたように「ネット」、「散歩」、「読書」をとりあえず試してみてくれ、それでもダメなときはオレまで連絡してくれ。メルアドはnamajipenn-ss@yahoo.co.jpだ。オレで良ければ相談に乗るさ。死ぬしかないにしてもその前に寿司でも焼き肉でもなんかうまいモノでもおごらせてくれ。

 

 若い人には、がんばってもどうにもならないこともあるだろうけど、今日をしのいで明日につなげ、明日をしのいでその次にという感じで、生きてて良かったと思える日までしのぎにしのぎまくってでも生き延びて欲しい。夢も希望も喜びもないとしても、それでもともかくダラダラとでいいから生きてみてくれ。死んだら何にも起こらないが、生きていれば、つらいことばかりの人生だとしても1つや2つは良いこともあるはずだ。その1つ2つの良いことのためだけでも人生生きてく価値はある。

 サクサク簡単に死んでんじゃねえよってことだ。

 

 

 さて、若者にしのびがたきをしのび、耐えがたきを耐えてもらうとして、我々オッサン世代は何をするべきなのかと考える。

 我々オッサン世代にもリストラやら倒産やら年金制度崩壊の噂やら厳しい時代である。じつは自殺者の4割が40〜60台の男性であり、我々オッサン達が一番自殺していたりする。酸いも甘いも知りつつも自ら死を選ぶオッサン達に対して、前述の精神科医と同様なんと言ってやればいいのか言葉に詰まる。でもまあやっぱりなにも死ななくても良いじゃないか、しょせん人生なんて死が訪れるその日までの暇つぶし、ボチボチ生きてこうよと言いたい。

 

 自殺者が増えるのも、企業が倒産するのも、あれもこれも「景気」のせいにされて、「景気が悪い」ということが諸悪の根源のように喧伝され、景気が良くなるにはどうすればいいのだろうかという議論ばかりなされているように感じる。

 景気は今後、高度成長期のように良くなることはないだろうと思う。いつまでも右肩上がりの成長が続くわけがないことぐらい自明だと思うのだが、違うのだろうか?

 とりあえず現状維持できればラッキーぐらいで、新興工業国の発展に伴い日本経済を支えてきた輸出産業も全滅はしないだろうが大きくシェアは奪われるだろう。

 日本もそうやって他の先進国のシェアを食いながら発展してきた。父を殺して王座に就いた王が子に殺されるのは世の習いである。

 がんばっても現状維持か下降線と考えてそれなりの準備をするべきではないだろうか。給料は全体的にもっと削減されても仕方ないけど、その分ワークシェアリングで雇用の数自体は増やして、みんなでもっと質素に暮らしていくべきだと思う。少ない仕事を多くの人間でわけて、その分安い給料で我慢して金が無くても幸せになれる方法を考えるべきだと思う。

 我が家には子供がいないので実感できるのだが、子供にかける養育費を負担しなければ今のそれほど高いとも思えない当方の給料でも使い切れないぐらいで、ザクッと大幅に給料削られても実は生きていける。

 給料をザクッと正社員みんなから削ってしまうのである。国全体として稼げなくなるのだから仕方ない。

 それでも幸せになれる社会システムを作らなければならないと思う。一番お金がかかるのが子供の養育費というのが当方の実感だが、給料が少なくなればそんなにお金をかける余裕はなくなる。その結果、教育という社会を上手く回していくための根幹がないがしろにされてしまえば、景気もクソもズタボロであろうことは火を見るより明らかだ。

 お金は使わないけれど、教育を充実させるということが可能だろうか。当方は余裕で可能だと思っている。ワークシェアリングで給料が減ったお父ちゃん、お母ちゃんは仕事も減らしてあげるべきで、定時には我が家目指して帰途につくことぐらいできるだろう。

 家に帰ったら子供の勉強を見てやればいいのである。金がかけられなくなれば手間をかければいいのである。かなり幸せな家庭風景だと思うのだがどうだろうか。

 親が教えられるのはせいぜい義務教育の中学生ぐらいまでかもしれない。でもそれで十分だと思う。

 実際問題、社会に出て必要な学力的な能力が義務教育以上だと思いますか?当方は思わない。だいたい大学生なんて多くは勉強などしていない。単なるモラトリアムのためにいったいいくらお金をかけてるというのか。余裕があればそれもまた人生に必要な期間と見ることもできるかもしれないけれど、そんな無駄に使うお金の余裕は無くなるはず。

 義務教育レベルで多くの職場では間に合うはずで、それ以上の専門的な教育が必要な労働力を得るためには、しかるべきエリート育成的な制度を作って対応すればいいと思う。

 皆が大学まで行くから、大学まで進ませてやるのが親の義務のように感じるが、みんなで行かなくなれば何も困ることはない。まあ高卒ぐらいで普通の人は良いんじゃないかと思う。

 さてそうやって、教育産業にも大打撃を与えつつ、質素な生活を目指していけば、当然他の産業でもモノが売れなくなり仕事が無くなる。

 労働力が余る。仕事は何をすればいいのか。

 結局、余裕が無くなれば教育含めサービスから切っていくしかなくなり、人が生きていくために必要な根本的な仕事をみんなでやるしかないだろう。農林水産業をみんなで手分けしてチマチマやるのである。お金はたいして儲からないだろう。でも食べていくことはできるはずである。何しろ食料を生産しているのだから。

 その上、少ない労働をみんなで分ければ、個人の自由な時間は増える。パトロンである国家全体に金の余裕が無くなるのだから、職業としての芸術家や研究者は少なくならざるを得ないが、個人の裁量での芸術活動、研究活動、哲学的思想などが、ある程度それをカバーしてくれると期待する。心から歌いたいやつは金が儲からなくなったぐらいで歌うことをやめないだろう。大がかりな施設が必要な研究は個人ではできないが、在野の研究者ができることも馬鹿にできるものではない。アインシュタインは特許局に勤めながら彼の理論の基礎を固める研究をしたと聞く。

 金は持っていないけど、とりあえず食うには困らない。自由な時間はいっぱいある。ならばその時間を使って幸せになることは可能ではないのか。

 

 食料生産について、日本が世界で勝ちまくれる輸出国であり続けられるなら、ある程度食料を輸入に頼るのは良い選択かもしれない。でもそうはならないだろうと思う。日本は負ける。

 そうなれば、輸入するにも買い負けて買い付けできなくなるという事態になるだろう。そうなれば輸入農林水産物が市場に入ってこなくなるわけで、逆に農林水産業は成り立つようになるだろう。

 そうすれば地域に根ざした産業、農林水産業を基幹産業に、経済的には大したことにはならなくても健全な産業構造が生まれるのではないだろうか。

 金がなくて困る部分は、無きゃ無いでできる範囲で工夫していくしかないはずだ。無い袖は振れないはずなのに、子々孫々まで残るような借金してまで馬鹿げた産業構造を維持する必要性などあるはずもない。

 

 たぶん、遅かれ早かれ、当方の想定したところまで極端でなくても、近いような状況になるのではないかと思っている。日本が輸出強者であり続けることができると考えているおめでたい人には、その根拠を教えて欲しいものだ。

 今のグダグダになりかかっている日本を見て、勝てると思うのは、第二次世界大戦の開戦後も勝てると考えていた日本人と同じ精神構造のような気がするが、違うのだろうか。素人目に見ても負け戦にしか見えないのだが。

 負けた後の準備をそろそろ考えておく時期だろうと思う。

 

 アイルランドで不動産バブルがはじけて、経済危機に陥ったときテレビの報道特集で、不動産の投機家だか銀行員だかが、職を失って田舎に帰って家業の漁業を継ぐという話が印象に残っている。そのオッサンはインタビューに答えて「もともと有りもしないものにつけられていた価値が無に戻っただけさ。また昔のように漁業をすればいいだけさ。」というようなことを言っていた。そんなもんだと思う。いつまでもバブリーな有りもしないものの価値を追い求めていてもどうしようもないと思う。アイルランドのオッサンのように割り切ればいいのだと当方は思っている。

 資源がないと言われる日本だけれど、主食の米を自給できる能力はまだあるし、魚もサンマとかの資源に余裕のある魚ならまだまだ生産量を増やすことは可能だ。そういう食料生産国としての比重を高めて生きていくこともできるはずである。

 

 異論は認める。

 

 

 最後に、今現在の当方が考える、世界一の幸せ者と、世界一不幸な者は、前者が「デカイのが釣れた日の釣り人」で後者が「デカイのを目の前で釣られたうえにスカ食った日の釣り人」である。

 

 異論は受け付けない。

 

(2011.12.18)

 

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