○水たまりで魚を釣る

 落語で釣り人をネタにした噺がある。

 ボーっと魚信を待つ釣り人とそれを眺める見物人が登場人物で、見物人が「釣れますか?」てなことを聞いて「見てのとおりぜんぜんダメだ。」と釣り人が答えると。「そりゃそうだろ、そこは昨日の雨でできた水たまりだ。」と答えてオチがつく例のやつである。

 釣れるかどうかもわからない魚が釣れるのを一所懸命に待つ釣り人は一般の人から見れば、多かれ少なかれ件の釣り人のように、ちょっと間の抜けた暇人(=バカ)と見られている。というのは釣り人のひがみだろうか。

 確かに、魚を手に入れる手段としてのみ釣りを考えるなら、高価な釣り道具をそろえ交通費だ船代だと金をかけるより、魚屋に行った方が確実であることは火を見るより明らかである。

 そんなことは釣り人のほとんどは百も承知であろう、そもそも釣りを魚を得る手段だという認識が間違っている。多くの素人釣り師にとって釣りは何かの手段ではなくむしろ目的であると言って良いだろう。釣れようが釣れまいが大きなお世話で自分なりの釣りをすること自体を楽しんでいるのに見物人が「そんなところでは釣れないでしょう。」だの「あっちの方が釣れてますよ。」だのは全くいらぬお世話である。

 私自身がその手の「ありがたい」アドバイスを良く受けるのである。もちろん地元の釣り人などからの貴重な情報などはこちらも大歓迎であるが、そういうおいしい話は滅多になく多くは全くの素人の近所のおばちゃんや観光客からの聞くに値しない「ありがたい」お言葉である。

 彼らはいったい何を見てどう判断しているのであろうか、常々疑問で仕方がない。見るからに年季の入った本格的な釣り人(私のことね)にたいして、ズブの素人である自分の判断の方が正しいと思えるその根拠はいったいどこにあるのか。釈迦に説法と言うと当方思い上がっているかもしれないが、そういった言葉を彼らはご存じであろうか。

 曰く「そんな浅いところでは釣れないでしょう。干潮になったら干上がってるよ。」。魚は体高分の水深があれば餌を求めてやってくる。さらに言うならそういう魚は活発に餌を食う。

 曰く「そんな汚いドブで魚が釣れるわけないでしょう。」。そうみんなが思っているから魚が残ってるんだよ。

 いちいち当方の秘密の釣り場を教えてやる必要はないので、その場では「いやーそうですねー、ぜんぜん釣れませんねー。」とかご期待に添うように返事しておくが、かといっていっこうにその場を離れない当方をみて「やっぱり釣りするやつはバカだ。」と思っていることであろう。

 釣り人としては、ほっといて欲しいと切に願うものである。

 たとえ、昨日の雨でできた水たまりで釣っている釣り人が居てもほっといていただきたい。洪水で水と一緒にあふれ出て水たまりで産卵を行うのはモンスーンの影響を受けるアジア地域のコイ科魚などでは当たり前の話である。

 余談だけど、そういった河川の氾濫源を生活の場として進化してきた魚種は河川が護岸されたりした結果激減してしまっている。

 ウナギは雨の日に陸地を移動する(稚魚がメインだけど)。昨日の雨でできた水たまりで魚が釣れないなんて誰が決めたのか。最初出てきた落語は釣り人にしてみれば全くオチてない。

 釣り人をバカだなーと思う程度に、釣りをしない人を釣り人はバカだと思っています。魚や自然のことをことをろくすっぽ知らず、釣りの楽しさも知らないなんて、なんてかわいそうなんでしょう。

 まあ、釣り人がバカであること自体に異存はない所ではあるが、釣りしない人にそのへんの釣り人の意図的なバカさ加減をしっかり認識してもらうにはどうしたらいいのだろうか思い悩むところである(註)。

 まあほっとけばいいのか?

 

(註)釣りの有名な定義に「糸の端に魚がいてもう一方の端にバカいる状態」というのがあることからも釣り人がバカであることは明白だが、この定義は釣り人が作ったと思われ、希望的観測に満ちておりいささか無理があると感じている。正しくは「糸の端にバカがいてもう一方の端には普通ナニもいないがごくまれに魚がいる状態」であろう。

(2008.3)  

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