○翼の折れた鳥

 

 大学生のころ、寒い晩秋の夜だったと思う、シーバスロッドを片手に、大学のそばを流れる川の河口の水門ポイント。堰堤を越えて降りていこうとすると、水門からの流れ込みの脇にゴイサギらしき鳥のシルエットが見えた。ゴイサギは夜良く活動している鳥で、シーバス釣りナマズ釣りしていると釣り場に先客としてたたずんでいるのをよく見かける。これも釣り場でよく見るアオサギほどは大きくはなく、鳩のくちばしと足を長くしたぐらいのイメージの大きさである。

 たいがいの場合は、釣り人である当方に気がつくとどこかに飛んでいくのだが、その日は違った。こちらを見ながらもじっとしたままだ。肝の据わった個体だなと思っていたが、釣りするにはどいてもらわざるを得ないので、申し訳ないがズイズイと近づいていった。さすがに飛び立つだろうと思っていた予想に反して、そのゴイサギは飛び立たなかった。正確には飛び立てなかったというべき状態だった。

 片羽を引きずるようにして、わたわたと川岸を逃げようとするのだが、弱っているのか足取りもおぼつかない。近寄ってみると羽にナイロンラインがゴチャゴチャと絡まっており、逃れようとと暴れたためか、ひどくラインが食い込んで血がにじんで、羽は折れているのかおかしな方向に曲がっている。

 ナイロンラインを使う釣り人として、非常に気が滅入るというか、罪悪感を誘う光景だ。もちろん釣り場に使用済みのラインを捨てたりしたことは無い。それでも根掛かりなどで意図しないが、水底にナイロンラインを残してしまったことはあるし、当方が直接関係ないにしても、そのゴイサギが命を奪われようとしているナイロンラインを放置したのは、自分と同類の釣り人のはずである。

 バツが悪いというか申し訳ないというか、とりあえずは捕まえて、ラインを外してできるだけのことはしてやろうと思ってわしづかみにしてつかまえた。思いっきりかみつかれて指に血がにじんだが、かまわず押さえ込んで、とりあえずナイフでラインを切って忌まわしい縛めから解放してやったが、折れ曲がった羽はたたむこともできずにぶら下がっている状態で、そのまま逃がしてやっても力なくうずくまる状態だった。そのまま置いていくのは捨てるのと同義に思えた。

 ナイロンラインを使い続けるくせに、たまたま目についた目の前の傷ついた鳥を助けようとする行為は、偽善的であり無意味な行為だという認識はあったが、そうはいっても「飛べない鳥」はいかにも無残で見ていられなかった。

 釣りは切り上げて、とりあえず捕まえたゴイサギを研究室の実験棟に運んだ。

 当時、同じ研究室の観賞魚マニアな同級生が付き合っている彼女(後に結婚)が鳥好きで、確か野鳥の会の会員かなんかだったことを思い出したので、彼の家に電話をかけた。とりあえず部屋にはいなかったので留守電に、「釣り糸で傷ついたゴイサギを捕まえた。羽を怪我しており衰弱しているようなので、研究室の空き水槽に、ヒーターぶち込んで加温して逃げないようにふたをしておいた。彼女を通じて適切な保護が受けられてまた飛べるようになるなら、そうしてやってくれ。飛べるようにならないなら、オレが締めて食べるから置いておいてくれ。」と留守電を入れて帰宅した。羽の具合は二度と飛べなくなりそうに素人目には見えた。

 次の日、研究室に顔を出して件の同級生に、「どうなった、羽治りそうか?」と聞いたところ、羽の状態は良くないので飛べるまで直る可能性は少なそうだということ、「二度と飛べないないなら食う」という当方の言葉に、彼女が怒り心頭でそんな人間に二度と保護したゴイサギを渡すつもりはないと言っているとのことであった。

 野生の鳥が基本的には法で保護されており、一部狩猟対象種のみが許可を得たハンターにより捕獲することができるということはもちろん知っていて、例え傷ついて飛べなくなってしまったとしても、野鳥を勝手に締めて食べてしまうことはルール違反だと言うことは承知していた。それでも、「オレが捕まえた鳥を煮て食おうが、焼いて食おうがオレの勝手だろう。オレの獲物を横取りすんなや。」という意識は強かった。もっというなら、当時は社会のルールなんか、便利だからあった方が良いとは理解していたが、その実わりとどうでも良いと思っていた。それよりも自分の中のルールにこそしっかり従うべきだと固く信じていた。

 当時の当方には、野生の鳥が飛べなくなって、人の保護下で餌をもらって生きながらえるということは、鳥にとって受け入れがたい屈辱であるように感じていた。空を自由に飛べてこその「鳥」だろう、もしその羽をもがれることがあったなら、自分ならいっそ殺してほしいと思うだろう、と信じて疑っていなかった。

 自分と同類の釣り人の不始末で、ヤツの命を奪ってしまうのは謝って済むとは思えない悪行だとは思ったが、せめてそうやって空を飛ぶ鳥としての自由が失われるのなら、きっちり締めて、ありがたく食べさせてもらって、羽も毛針に使わせてもらって、ヤツの命を無駄にしないであげたかった。一生籠の鳥で人間の手を煩わせるだけの存在に貶めて、ヤツを辱めることは当時の当方の感性ではゆるせなかった。

 同級生にはさんざん文句を言ったが、既に現物が自分の手にないのでどうしようもなかった。同級生は当方の気持ちもよく分かると言って取りなしてくれたが、彼女に逆らうことはできないようであった。まあ、怒った女性には勝てないというのは既によく分かっていたので、あきらめて手を引いた。

 

 今考えて、当時の当方の考え方は正しかったのか、考えてみる。

 とりあえず、今の当方は、籠の鳥でも二度と飛べなくても、人の世話になろうとも鳥は生きていけるなら、生きた方が良いような気がしている。

 今も昔も当方は鳥じゃないので、鳥の気持ちは分からない。同じ人間でも他人様の気持ちは測りかねるのに鳥ならなおさら分からない。もちろん空を自由に飛べなくなることが、幸せではないことは鳥じゃなくても分かると思って良いとは思う。

 でも、その不幸せな境遇の中でも、環境を受け入れることができれば外敵に襲われることなく安らかに眠れる現状に快適さを感じることはあっても不思議ではない。優しく世話してくれる人に良い感情を持てるかもしれない。

 今現在、飛べなくても治療技術の発展やらで未来には飛べるようになるかもしれない。一生飛べなくても籠の鳥ではなく、大きなエリアに放し飼いになるとか待遇の改善があるかもしれない。同種の異性が保護されてきて恋だってできるかもしれない。

 たとえ飛べない鳥が全く幸せでなく、惨めな生涯だとしても、そういう保護された羽の無いような無残な鳥が、無言で人々に訴える姿には、まともな心のある人間なら「釣り場のラインやらは拾うようにしよう」と思わずにいられないはずだ。そのためだけにでも生きながらえさせる価値がある。たとえ鳥自身が全く不幸でも、次の不幸をいくらかでも防ぐ力になるならばと今は思う。

 

 じゃあ、昔の当方は間違っていたのか。単純にそうとも言い切れないような気がする。若き日の過ちを人はなかなか認めたくないものだというが、そういう感情を差し引いても、「飛べない鳥」の恥辱にまみれることをよしとしなかった、若い日の自分の潔さに、今は汚れっちまった自尊心をかえりみて、とても好ましいものを感じる。

 

 今考えていることも、また20年、人として生きて、そのうえでかえりみたら、「40歳の頃はそんな風に考えていたんだ。」と感慨を持って振り返るのかもしれない。

 過去の自分の考えも、現在の自分の考えも、そしてきっと未来の自分の考えも、自分なりに経験や思索の積み重ねから導き出しているはずで、当方としてはそれぞれの考え、どれが正しくて間違ってということはなく、その時々に一所懸命考えていたのならそういう考えもありだと思える。正しい答えなんて無理矢理見つける必要はないと今の当方は思う。

 20年後、何を考えているのか、とにかくそれを確かめるためには生きていなければならないので、まずは健やかに生きていけたらなあと思う。

 

 翼が折れてもカゴの鳥でも、生きてれば良いことはあると今は信じている。

 

 

 

(2014.1.19) 

HOME