○復興支援ボランティア報告 ー南三陸町にて−

 

ガンバッペ東北 

 2011年3月11日に東日本の広範囲を襲った千年に一度といわれる巨大地震は、高さ10mを越えるような「想定外」の大津波を引き起こし、東北地方の太平洋岸を中心に、人命、物的被害ともに大きな爪痕を残した。

 2012年をむかえる今現時点でも、津波で壊滅状態になった町は、かろうじて残った建物の鉄骨部分や基礎のみが残り、およそ日本の光景とは思えない有様で、同居人の感想「「北斗の拳」みたい」という表現がぴったり来る世紀末的な様相を呈している。多くの町で地盤は沈下し大規模なかさ上げなしには建物の建築も始まらない。避難所生活は解消され、仮設住宅で新年を迎えられたが、依然として元の穏やかな生活とはほど遠い不安な生活が続いている。被災を契機に町を出る人も多く、多くの死者を出した上にさらに人々の絆が断ち切られている現実がある。

 もちろん暗い話ばかりではなかった。ボランティアに全国からやって来た人々がいて、特に学生さんなどの若い人のパワーには、「ああ、今時の若い人はなかなかにたよりになるじゃないか。」と思わされたし、地元企業や漁師さんなどもボチボチ仕事を再開しはじめていて、復興へたくましく一歩を踏み出しているように見受けられた。年末ということもあって、仮設の店舗や、「復興市」では年越し用の食料を買う人などで活気に満ちていた。同居人のお兄さんの所には新年早々あたらしい家族が増えるということで、多くの人の命が失われたけれど、また新たに授かる命もあるというのは、再生を強く感じさせられる嬉しい話だ。

 今回、12月26〜29日にかけてボランティアに従事してきたので、その様子を紹介し、現地の様子などを幾ばくかでも感じていだたければと思うのだが、とりあえず行ってきて皆さんに伝えたいことを3点最初に書いておきたい。

 

1つめは、「ボランティアに参加しよう」ということです。

 まだまだ、細かい瓦礫の撤去やら津波で運ばれてきたゴミの回収など、重機でガバッとやってしまえないような仕事は沢山残っていて、ボランティアの需要はまだまだあります。報道される頻度も少なくなり感心が薄くなってきたためかボランティアが集まりにくくなっているようでした。休みと体力に都合が付けば是非ボランティアに参加してください。受け入れ体制もすでにしっかり整っていて、各自治体やボランティア団体がサイトを立ち上げていて、参加の仕方や必要な装備などの情報もすぐ手に入ります。

2つめは「東北に観光に行こう」ということです。

 被災地でも、そろそろ観光客の受け入れ体制が整いつつあります。仮設飲み屋街なんてのもあったりして、結構人気のようです。魚釣りに関しては、遊漁船も多くは流されてしまったのですが、生き残った船で再開した船宿もあります。後ほどくわしく紹介しますが、漁船が流されてしまい漁獲圧が減っていることもあってかなり特殊な爆釣状態に突入しているようです。被災地の復興支援のために是非東北へ観光に訪れてみてください。被災した地域に観光だなんて、なんだか気が引けるという場合は、何日かボランティアにも参加する日程で行ってみてはいかがでしょうか。ボランティアには実際にそういうパターンで東北に来ている人もいました。「観光だけでなくボランティアも参加して、現地の苦労がちょっと分かった気がした。参加してみてよかった。」とのことでした。まだ災害の爪痕が痛々しく残っていますが、それでも海や山は美しく、魚介類は美味しく、行く価値は充分あると思います。今の被災地の現状も含めて観光して見てきて欲しいと思います。

3つめは「東北の産物を買って下さい」ということです。

 漁業も基幹となるような港は優先的に整備され一部復旧し、すでに水揚げが再開されています。三陸沿岸でリアス式の湾を利用して盛んだった養殖業についても、とりあえずすぐに出荷できて現金収入が得られるワカメが盛んに種付けされているようだったので2月頃から出回るはずです。その後はホタテ、カキも出てくるはずです。魚介類以外でも酒から、お菓子からいろんなものが、工場や加工場の復旧に伴い出回ると思います。是非被災地を支援するためにこれらを購入して欲しいと思います。

 以上3点をよろしくお願いします。

 

 それでは、現地からの報告を始めたいと思います。

 

 年賀状書きや釣り具の手入れなどを終えて、日曜25日に新幹線で仙台へ。仙台からは宿泊する南三陸町のホテル観洋の送迎バスで南三陸町目指す。

 仙台の町は震災時に震度6とかの大揺れだったはずだが、仙台駅周辺は特に被災の痕跡は見当たらず、既に平常運転のように見える。バスでの道中でも内陸部の町並みや田園風景はのどかな感じで、あれほどの大震災があったことが嘘のように思える。今時のビルが耐震構造で丈夫なのは理解できるが、普通の瓦葺きの農家も瓦も落ちずに残っている。中には崩壊した家屋もあったと聞くが多くはなかったようだ。

 それが、海岸沿いのエリアに峠を越えて入っていくと全く景色が一変する。道沿いには、既に大きな瓦礫は撤去され、コンクリの基礎だけになった家々や、たまにまだ回収されていないボロボロに錆びた車、塩水をかぶったため枯れかけているのか赤茶けた杉林。杉の木にはちょっとおかしいとしか思えない高さにゴミが引っかかっていて、いかにデカイ津波がやってきたのかが見て取れる。一件だけポツンとプレハブの建物で生活しているらしい家があった。ライフラインが全く復旧していないであろう場所で、それでも「住み慣れた土地を離れない、ここで暮らしていく。」という決意が見て取れる。

 仙台駅から2時間ほどで、ホテル観洋に到着。崖の上の志津川湾を見下ろす位置にある結構高級なホテルだ。津波で3階ぐらいまで浸水したそうだが、すっかり復旧している。泊まるのは初めてだが、露天風呂とかも楽しみだ。

 部屋に入ると窓から志津川湾が見える。養殖施設のブイが3列に並んでいる。小型定置網も見える。養殖施設等はすべて流されたけど、収穫まで時間のかからないワカメ養殖あたりから再開されていると聞いていたが、実際に目にすると確かに復興に向けて動き出していることが実感され嬉しかった。

志津川湾

 部屋で荷を下ろして、会う約束をしていたcarankeさんに電話すると、すでにホテルのロビーにいるとのこと、ロビーに行くとcarankeさんとTさんがいた、志津川で働いていたときの職場の仲間だ。職場の年代と座席が近いどうしでよく飲んだりしていた仲間で、前会ったのは4、5年前か?ちょっと涙腺ウルウル来たが、平静を装い再会を喜び合う。

 ホテルの喫茶コーナーで、被災時の話やらを聞く。職場の皆さんの消息も聞く。やはりというか残念ながら何名も亡くなっていて、よく知っている人もいた。ご冥福を心からお祈りしたい。

 Tさんと別れて、carankeさんとホテルの横のレストランで夕食。いろいろ話す。海縁から高台への移転も話題になった。集団で移転するか、小規模で移転するか、そもそも高台には移転しない、いろいろ選択肢もあって方針も決まらず調整は難航しているようだ。ニュースでどこかの被災した水産加工業の社長さんが、「津波が来るとしても海のそばに住む。海のそばで暮らしたい。津波が来たら逃げればいい。」というような趣旨のことを言っていて、その気持ちはよく分かると思った。人生に1度ぐらい、財産根こそぎ持っていかれるとしても、命があれば何とかなるし、海のそばに住んで海の恩恵を受けて生きていけるなら、それが幸せだと私も思う。いろんな考え方があっていろいろ難航するだろうけど、ゆっくり考えてそれぞれ決断していけばいいのだと思う。

 食事後、明日の朝飯の買い出しなどに町の中心部のコンビニまで車を出してもらう。上流のヤマメ釣りから、下流域のウグイ、クサフグ、ヒラメ釣りまでさんざんっぱらお世話になった八幡川の横を通るが、満潮時であり道路が冠水している。車高の高いオフロード車でザバザバ行ったが、後続車は引き返していた。海沿いというほど海に近いわけではないのだが、地盤沈下は激しいようだ。いったいどのくらいの範囲で土地のかさ上げが必要なのだろうか。時間も予算も土もかかる作業だろうことは一目瞭然だ。気仙沼でも全半壊した同居人の実家の前の道まで冠水するようになったという。港からは3本目の通りでもそういう状態であり、他の被災地でも同様の状況なのだと思われる。

 ちなみに志津川の町の中心部に信号が復旧したのもごく最近だそうだ。それまではアイコンタクトで何とかしていたとか。

 コンビニに到着。コンビニが仮設のプレハブ製でちょっと驚いた。ちなみに周りにはいち早く復旧したというガソリンスタンドとこのコンビニ以外になにもない。中に入ると普通のコンビニにちょっと野菜とか肉多めの品揃え。夜食と朝ご飯をゲットしホテルに送ってもらう。

コンビニとcarankeさん

 

 ホテルに戻り、お風呂タイム。てくてく歩いてエレベーターで降りて大浴場へ、まだちょっと早めの時間だったためか結構空いていて、デカイ風呂をゆったりと堪能。露天風呂、さすがに外に出ると寒いので速攻で湯に浸かる。温泉に浸かるニホンザルの気持ち。出たくない。海縁なので海面が見えて、ホテルの灯りに誘われてかカモメの仲間がプカプカ浮いている。対岸の町に灯りが少なくちょっとさみしい気持ち。

 風呂から上がって、帰りがてら土産物コーナーなど見ていると隣に本のコーナーがあって漫画も沢山ある。手塚治虫の火の鳥をチョイス。おやつ食べながら部屋で読む。命というテーマに巨匠が挑んだ名作は読むの2度目だが面白い。

キラキラ図書コーナー

 10時頃には寝ようと布団に入るが、在りし日の志津川のことやら、今の町の様子やらいろいろと考えてしまってなかなか寝付けない。12時頃になんとか寝たが3時頃に目が覚めてしまい小一時間火の鳥読んでまた寝た。

 

 26日朝6時半に起床。コンビニおにぎりなどもそもそと食ってビタミン剤飲んで出発準備。とにかく寒くないように、がっちり着込んで、上着の上にゴアのカッパを重ね着し、首元にターバン(ニットキャップの天井が抜けたもの)、頭に耳フード付き帽子、マスク着用、事前の腰痛コルセット着用、手袋はバイク用の綿入り革手袋、下はバイク用の綿入れオーバーパンツ、足下は船に乗るときの鉄板入り安全長靴。もちろん背中に張るカイロ。という出で立ち。

 ホテル前のバス停へ。当方の後からやはりボランティアらしい初老の男性がやってきて挨拶。しばらくすると気仙沼線代行のミヤコーバスがやってきた。乗り込むと若者でいっぱい。志津川高校の生徒達だ。車内は若い人の熱気が充満しているのか温かく、おじさんもちょっと若返るような気がした。志津高生を志津川駅(跡)でおろすと、ボランティアセンターがある体育館「ベイサイドアリーナ」に向かう。

町中 (バスの窓越しの潤んだ光景)

 移動中の光景は、5月に来たときよりも積み上がっていた瓦礫とか打ち上がった船や車が無くなった分、「何も無い」感がすざまじい。写真では建物が写っているが、このように鉄筋コンクリートのガワだけでも残っているのは病院やスーパーなどごくわずかな建物で、基本的には建物の基礎だけ残ったような何もない荒野が広がっている。あらためて「ここはほんとに日本なのか」と疑いたくなるような光景に胸が締め付けられる。

 ベイサイドアリーナに到着し、しばらく受付時間までウロウロする。

ボラセン(ボラセン外観)

ボラセン内部(ボラセン内部)

メッセージ軽トラ(メッセージ軽トラ)

 受付を済まし、昼飯は作業場近くで買えるか確認すると、いまコンビニで買っておくようにとの指示。コンビニそばにあるようなことがサイトに書いてあったが、車ならすぐだが歩いて行くと10分くらいかかる商工団地にあった。倉庫を改造したコンビニ。

倉庫コンビニ

 昼飯と飲み物をゲットし、ボランティア用のビブス(サッカーの紅白試合で使うようなチョッキ。チョッキって今時はつかわんか?)をもらい、荷造りテープに名前を書いてビブスに張る。

 100名前後ボランティアは集まっているのだろうか。いくつかのグループに分かれて、今日の当方のグループの作業は廻館地区での瓦礫撤去とのこと。廻館地区といえば私がお世話になっていた職場のある地区だ。ボランティアセンターのリーダーから、怪我や無理の無いようにとか、地震があった場合の高台への避難経路の確認等注意事項があり、「写真撮影は禁止」とのことであった。まあ、自分の家族やら友人やらが亡くなった場所で、にっこり笑って記念写真とか撮られたら、けっして良い気持ちはしないだろう。もし被災地を訪れる場合は、そのへんの住民感情にも気をつけていただくようお願いしたい。写真撮って伝えることの大切さもあると思うので、そのへんは撮るときには常識を持って撮りましょう。

 足がないので八王子から来ている若い先生方の団体のマイクロバスに同乗して現場へ。現場到着すると昔の職場の道隔てた向かい側の建物のあたりだった。

 作業は、地面に落ちているコンクリ片やガラス、木材、金属、などの瓦礫で重機でガサッと持って行けなかった細かいものを熊手やらを使ってほじくりつつ分別して収集するという地味な作業を人海戦術で行った。私は最初手袋はめて拾っていたが、途中でリーダーからカナノコを渡され、地中から生えるような形で突き出している水道パイプやら、フェンスの支柱、電線などを切ってくれと指示を受け、あちこちからニョキニョキ生えているそれらを切ってまわった。水道パイプなどは結構太いので右手の握力が無くなりそうになりつつも10分ぐらいかかって切っていた。

 午前中に1度休憩が入る。昔の職場跡を散策。基礎が残っているので部屋の位置関係とかは分かる。この辺が自分のデスクだったなあとか、この辺が宿直室だなあとか思い出す。亡くなった方も多いので献花する場所が設けられていた。亡くなった方のご冥福と町の復興を見守ってくれるように祈った。フラフラと歩いていて、駐車スペースの端に鯉のいた池が半分土砂に埋もれながらも残っているのを見たら、ふいに在りし日の思い出などいろんなことが頭に思い浮かんでしまい、涙腺の堤防が決壊した。涙ダダ漏れ。

 休憩終わり、涙をふいて作業再開。瓦礫の一部だけが地面に出ていてほじくり始めると巨大な獲物が埋まっているということが結構あって、これは無理だと判断されるとのこぎりの出番だが、人というのはこういう作業においても達成感を求める生き物らしく、結構みんな必死になってほじくり返して、そういった難事業が成功すると歓声が上がったりしている。

 12時すぎて昼食休憩。一人でもそもそとコンビニ飯を食って、ちょっと眠いので建物の基礎の上で横になって空を見上げる。良い天気だ。昼からは建物の基礎の上に乗っている瓦礫を撤去、基礎自体も所々崩壊していて鉄筋にコンクリが団子状に串刺しになっていたりして、津波が土砂やら瓦礫やら巻き込んで寄せては返した際の衝撃のすさまじさを感じずにはいられないが、そのコンクリ団子の串部分の鉄筋を切りまくるのが午後のメインの仕事。はっきり言って右手がしんどい。途中不器用な左手にチェンジしたりしながら黙々と切り続ける。他の人たちは重いコンクリや、基礎の上にたまった土砂の撤去などをパワフルにこなしている。学生さんぽい若い人も多く、作業しつつ女の子にコナかけている男子もいた。元気があって非常によろしい。

 後半は、基礎の上にボルトで固定されている柱をはがす手伝い。ボルトにハマったナットがすんなり回ってくれればスパナで回して取ればいいのだが、いかんせん塩水をかぶっているので錆びていたり、ボルトが曲がって回せなくなっていたりする。そういう場合は当方がカナノコでナットごと切る。これが一番時間がかかった。途中まででも回れば隙間にカナノコの刃を突っ込めるので切るのはボルトだけですむのだが、1カ所ぴくりともしないのがあって30分くらいかけて根性で切った。2時過ぎに撤収に入る。最後に重いポンプを金物集積場にロープを掛けて引きずっていこうということで、若い人たちに混じって綱引きをしたが、めちゃくちゃ重くて難儀した。「40のオッサンの仕事やない!」とぼやいて失笑を買いつつ若い人たちと共同作業。無事終了してお片付けしてボランティアセンターに戻る。

ボラセンにて

泥まみれ

 足下は毎日?ドロドロになった。初日はこれでもまだマシな方であった。「その人物を知りたければ足元を見よ。」という言葉もあるそうだが、まあボランティアとして恥ずかしくない足元と言って良いだろう。機具類を洗う時にお願いすると高圧水流で長靴も洗ってくれる。

 明日の朝飯、飲み物等をゲットすべく、コンビニに向かっていると、ボラセン近くの一角に懐かしい店名を見つけた。「マルカノー釣具店」。志津川在住時にお世話になった釣具屋兼船宿である。ここの専務とは仲良くさせてもらっていた。お元気だろうかと店内に入る。

マルカノー

 社長とお母さんたちがおられた、専務は所用でしばらくすれば戻ってくると言うことで、待たせてもらう。

 専務と奥さんがもどってきた。再会を喜び合う。海に一番近い場所に住んでいたので、震災後、安否確認ができずに南三陸町の不明者が1万人とかいう情報が流れていたときには、正直もう会えないんだろうと思っていた。無事生きていてくれて嬉しい。南三陸町でも1000人からの沢山の方が亡くなられておりとても悲しいのだが、それだからこそ生きてまた会えたことがたまらなく嬉しい。

 海のそばの店は志津川店も気仙沼店も持っていかれたが、さいわい普段から「地震が来たらすぐ高台へ逃げる」を徹底していたので、家族皆無事で、既に仮設店舗で志津川店、気仙沼店、千厩店を立ち上げて、遊漁船も残った数隻で稼働中とのこと。「沿岸部の人はお金持ちになれないわけだよね、こうやって何十年かに一回全部もってかれちゃうんだもん。(実際には志津川の言葉でしゃべってましたが、標準語に訳しております)」と笑い飛ばしながら、すでに事業拡大に動いているアタリのたくましさは、したたかというか、力強いというか、さすが東北人というタフさである。オレが被災者に励まされてどうするんだと思うが、それでもそのたくましさにはとても励まされる。

 奥さんは震災の時実家にいて、車に乗り込んだところ、前の道を海に向かっていた車が、急にターンして戻ってくるので何事かと海の方を見たら、巨大な津波が迫ってきていたという。慌てて車を出したものの、ガクガク膝が震えてしまいベタ踏みしているつもりがアクセル踏み切れず、40キロぐらいしか出ずに死にそうになりながら辛くも逃げ切ったとのこと。笑って話しているけど危機一髪である。ご無事で何よりである。

 釣りの方は、震災後、夏ぐらいから残った遊漁船でスタートしていたのだが、最初は魚も流されたのか付き場が変わったのか釣れなかったようである。しかし、秋に当地ではハモと呼ぶマアナゴが馬鹿釣れし始め(なぜアナゴなのかは「言わぬが花」だが)、冬近くなってからはアイナメもカレイもちょっと驚くぐらいの爆釣状態だそうである。漁船が津波で大半持っていかれて漁獲圧が減っているので、魚自体は相当多い状況のようである。あと、やっぱり養殖筏が壊れて逃げたギンザケは川にのぼりまくったらしく、かなり釣れたようでサクラマスだと勘違いした釣り人も多かったようである。

 船の手配は志津川湾、気仙沼湾であれば可能なので、是非、復興が進み漁業の体制が再構築されるまでの一時のビックチャンスを釣り人なら逃さず体験して欲しい。不謹慎かなとは思わないでもないけれど、何もかも飲み込みやがった海から、釣り人がなんぼか取り返すぐらいは、もう復興へと歩み始めている時期でもあるし良いんじゃないかと思います。再開した釣り船やら宿泊施設やらはお客さんが来てくれるのを待っている状態です。

 船の手配、釣り情報は「マルカノー釣具店」http://www.f-on-promo.jp/marukano.htmlでよろしくお願いします。得意な釣りものはカレイ釣り、ヒラメ釣り、ルアーの根魚など、海の状況によっても釣りものは変わってくると思いますので情報収集して良い波に乗って下さい。

 マルカノー釣具店を後にして、コンビニまでてくてく歩いて行くと商工団地内に仮設の魚屋さんができている。正月用のメバチやメカジキやらキチジやらに混ざって、志津川名物マダコも売っている。別のところで「志津川のマダコはアワビ食っているので旨いとされている」と書いたが、多くのかたは「そんなアホな」と私の創作した与太話だと思っておられるかも知れないが、そうではないという証拠写真を撮ってきた。

アワビマダコマダコ

 機会があれば、是非食べていただきたいと思います。

 コンビニで明日の昼飯まで確保して夕方のバスでホテルに戻る。ホテルのレストランで刺身定食。さすがに地物だけでそろえるのは今は無理のようで、普通にノルウェーサーモンやらカンパチやらが並んでいてちょっとさみしかったが、味噌汁の具がマツモなのと、マグロがたぶん石巻、気仙沼あたりに揚がった生メバチで美味しかった。

刺身定食

 体使って働いたので腹が減る。土産物コーナーでおやつを物色。懐かしい地元志津川の及善商店の笹カマボコはキチジ入りの贅沢な味。「火の鳥」読み終わって、源氏物語を漫画化した「あさきゆめみし」を読みつつ食べる。

 それなりに疲れているのだけれど、今日も寝付きが悪く、夜中にまた起きた。

 

 27日、ボラセンのある体育館の周りには、プレハブで役場や、病院、消防署や公民館などが作られていて、そのへんをウロウロしていたら、テント張っている若者がいた。私も宿が手配できなければテントでと考えていた。道路脇の緑地がテント場になっていて、夏などはボランティアの人たちのテントで賑わっていたようだが、今は2張りのみである。寒いからね。

 テント場

 今日の作業場は、荒戸地区の沢沿いに津波が上がった場所の、両サイドの林に引っかかったゴミなどの回収である。現場まで乗せてもらった車にはテントの若者もいた。夏にも来て2度目だそうで、コンビニ近くの食堂の人と仲良くなってカイロとか差し入れしてもらって頑張っているとのこと。

 沢沿いの傾斜地での作業とあって、登ったり降りたりが激しく、体力使うと同時に完璧な防寒対策があだになって暑い。中に来ているダウンなどを途中で脱いだ。

 適当にユルユルやりたいと思っていたが、目の前にやることがあるとついやってしまうたちで、若い人に交じって奮闘する。だいぶ奥の方まで谷を津波が駆け上っているようで、どこまでも漁業資材や生活ゴミが散らばっている。上へ上へと作業していくのだが、放っておくと、みんな最初のゴミの集積場所に律儀にゴミを運んだりしているので、回収するトラックの方で上がってきてもらえばいいので、新しい集積場所を作ったりしながら作業を進める。オッサンなので結構全体を眺めながら作業できたりはする。

 上の方に行くと、休耕田が湿地帯のようになった場所の両側のゴミを回収する。若い人が湿地帯の泥沼にハマって動けなくなったのを、大きめのカゴを渡してカゴに力を掛けて足を抜くように言って脱出させたり、何でこんな上にカゴ漁業に使うカゴがあるのかな、というようなカゴが湿地帯で凍り付いているのを2人がかりで引っぺがしたりとまめに働いていたらかなり疲れた。ちょっと休憩して藪で用を足したら、尿が真っ茶色でびっくりした。運動性の血尿は学生時代の部活合宿以来じゃなかろうか。あきらかにオーバーワークだ。体の節々も痛い。昼食後は意識してちょっとペースを落として作業。

 2時半頃に終了して、ボランティアセンターに帰る。

 この日は、プレハブで業務再開している昔の職場を訪ねた。

 5人ほど親しかった人に12,3年ぶりにお会いすることができた。職場関係以外の人の安否もほぼ確認できた。みんな忙しそうだったが再会できて嬉しかった。

 昔話やら、震災後しばらくの苦労やら、今現在の忙しさの愚痴やら聞きつつ楽しく談笑した後、当時、右も左も分からぬ若造だった私を舎弟分のように目を掛けてくれたAさんと話し込む。

 仕事はいっぱいあるが、できることは人手も限られているし、なかなか思うように進んでいかないというような話には、大変だと思うけど、「やれるとこからやっていけば必ず進んでいくから大丈夫だと思う」のでそのようなことを話した。未来については私はあまり悲観していない。もちろん復興についてもいろんな問題や衝突が起こり、みんながみんな納得するような結果にはならないかも知れない。でも、議論してぶつかって、妥協点探して、現実的にとれる方法をみつけて進んでいけば、時間はかかろうとも復興は必ず成し遂げられると思っている。未来はそう明るくもないかもしれないけど間違いなく今より良くなる。そういう方向に進んでいる。

 でも、「震災直後は現実感がなかったけれど、実際に友人や親族、職場の仲間の遺体が次々と確認され、町からは内陸部へ移転していく友人、知人が増え絆が断ち切られるような出来事に直面すると悲しくてならない。」、という話には、正直掛ける言葉もなく2人してしばらくうつむいてしまった。「時間が解決する。」という言葉はある。ある程度はそうだろうけど、これだけの人が亡くなり、町が根こそぎ持っていかれた悲しみが、すべて解決するまでの時間を人は生きていないだろう。おそらく、一生癒されない心の傷を抱えて、それでも生きていくよりほかないのだと思うと、とてもつらく悲しい。生きていさえすればいくらでもやり直して挽回するチャンスがあるが、死んでしまったらどうにもできない。「死んだ子の年を数える」という言葉は、過去の出来事を悔いても過去は変わらないので意味が無いといさめる言葉で、だから前を向いて歩こうということをいいたいのだと思うが、人間の感情はそんな理屈どおりにはいかない。きっと「死んだ子の年を数える」ような悲しみを抱えて生きていくしかないのだと思う。なんとも胸が引き絞られるような切なさを感じる。「がんばろう!」「前向きにポジティブに」という言葉が虚しく響くような大きな悲しみが被災地には確かにある。どうすればいいのだろうか?私にはよく分からない。これから見つける喜びが、なるべく悲しみを覆ってしまうように祈るぐらいしか思いつかない。

 「都会暮らしはあんまり好きじゃないんだろ。こっちに来て、一緒に復興していく中で仕事したらどう?(実際には志津川の言葉でしゃべってましたが、標準語に訳しております)」と誘われた。社交辞令だとしても嬉しかった。「タラ、レバ」をいっても仕方ないとは思うのだが、健康面に問題がなけレバ、仕事やめなくても東北の方の支所に転勤して復興支援の業務をやらせてくれと直訴すればやらせてくれそうな職場の雰囲気である。若くて健康だった頃の私だっタラ、仕事の質はともかく力任せに量はこなせたので、いっぱいやることのある震災対応や復興支援の鉄火場で役に立てたはずなのにという、そんなこと言っても仕方ねーじゃねーかという思いが頭に浮かび、無力感やふがいなさ、「まかせとけ」と駆けつけられないもどかしさを感じずにいられない。仕方ないとは分かっているつもりだが、「タラ、レバ」を考えずにいられない。まあ幸い健康面は回復傾向にあるので、しっかり復活してからでも、やることはまだあるだろうからそのとき活躍すればいいさと思いたい。

 夕食はcarankeさんと。健康害した経緯など、あまり人には言えない愚痴を聞いてもらう。被災者に励まされてどうするよオレ、という感じだが、まあ古い友達ということでつい甘えてしまう。

 

 さすがに疲れたので、この日は早くに眠れた。

 28日、6時半に起きると、体の節々がめちゃくちゃ痛い。かつ吐き気がして熱もありそうな感じ。完全にオーバーヒート状態のようだ。情けない話だがある程度予想どおりでもある。現場仕事が務まるほど調子よくはないし歳もくってる。本日のボランティア参加はあきらめて、ホテルでおとなしく海を眺めつつ漫画読んだり、薬飲んで寝たりしてすごす。「あさきゆめみし」の光源氏編を読み切って、次に、今考えると横島君はワーキングプアの先駆者だったなと懐かしく思い出す「ゴーストスイーパー美神」の人の「絶対可憐チルドレン」を読み始めたが、「絶チル」の登場人物の名前が源氏物語から取られていて意味のある偶然ぽい感じだった(更に後日同居人のお兄さん宅でなにげに手に取った漫画が「パタリロ源氏物語」でちょっとビックリ)。もし何かの奇跡的な出来事を暗示しているなら、ぜひ被災地の喜びとなるような奇跡をお願いしたい。まあ意味のある偶然も奇跡も神も仏も信じちゃいないのだけれども、ちょっと弱っているので、もしもそういうものが存在するなら祈っても良いかなと思ったりする。 

 29日、6時半に起きると、熱もなく節々の痛みもまあまあ耐えられる程度になっているので、荷物をまとめてチェックアウトして、今日は休日ダイヤでミヤコーバスが使えないので、ホテルのボランティア向け乗り合いバスでボラセンに向かう。

 ボラセン前というか体育館前で「福興市」と書かれたテントで、海産物を主に販売する市が立っていた。これは震災前は魚市場でやっていた「おすばで祭り」だった。「おすばで」というのは酒の肴的な意味で正月用の食材を売るイベントである。タコだのイクラだのマグロだのが並んでいる。ちなみにここいらのおせち料理のなますには大根にんじんの他にタコが入るのが基本である。

おすばで祭り

 今日の現場は戸倉滝浜地区で瓦礫撤去。小さな漁村で港が見える。ここの瓦礫は瓦が多かった。瓦を中心に瓦礫を拾っては収集場所に投げてという作業を繰り返していたところ、11時過ぎに腰にきた。ぎっくり腰とまでいかないモノの、かがんでものを拾って立ち上がると腰に嫌な違和感がある。仕方ないのでちょっと早めに昼休みに勝手に入って港で寝っ転がる。昼食後は多少マシになったので、腰に負担がかからないように住居跡のガラス等軽いものを座り込んで回収していた。2時過ぎに終了。ボランティアセンターの活動も今年は終了ということで、お疲れさまの挨拶があった。ボランティアに集まってくれたみんなへの感謝と共に、帰ったら見たことを周りの人に伝えてボランティアがまだ必要なことをアピールして欲しいということと、中国産など買わずに三陸ワカメとか被災地メイドの産物を買ってねとお願いがあった。

 ボラセンに一旦戻り、足回りを洗ってもらい、「絆」Tシャツを購入。

 carankeさんに気仙沼まで送ってもらう。いろいろと最後までお世話になりました。感謝。

 

 という感じで、4日間の予定が、3日になるというていたらくではありましたが、南三陸町でのボランティアを体験してまいりました。

 正直、復興にはまだまだ時間はかかると思います。ボランティア、観光、産物購入、祈り、etc.etc.なんでもいいので支援をお願いします。

 行って体験しないと分からないこともあり、現地で懐かしい人達にもお会いできて行って良かったと思います。ただ、やっぱり私は現場仕事できるような状態ではなく、そのへんはある程度若いパワーに任せて、とっとと健康を回復して、本来の役目である水産関係の知識を生かした仕事でもって復興を支援していくのが、私が正しくやるべきことなんだろうなとは思いました。行く前からまあある程度分かってはいたのですが、行かないと自分が納得できないので「自己満足」のために行ってきたという側面も否定しません。血のションベン流して熱出して寝込むまでやったので個人的には満足しています。まあ、のべで何万人か参加したボランティアの1人として確かに現場でお手伝いさせてもらったことは事実で、ちょっとぐらいは役に立ったことでしょう。

 今回のこの報告を書くのは思いのほか苦労しました。2日に取りかかって何度か中断しつつ3日の夕方に書き上げました。おかげで初釣りも行きそびれてます。

 予想どおりではありますが、現地の悲しみに触れ、私の繊細なまるで生まれたての子羊のような(と自分で書くぐらいには太いけど)精神はけっこうなダメージ食らってしまい、思い出して書くのはしんどい作業でした。そのへんの悲しみやら、逆に嬉しいことやら、正直上手く書けていません。今はまだ上手に書ける段階にはないように思います。しばらく寝かしてまた書く機会があれば書いてみたいと思います。でも湿っぽいのは書くのがしんどいので、今度は三陸からの爆釣レポートとか不謹慎なぐらいに楽しいのにしたいというのが正直なところ。

 体も結構しんどいです。腰痛い。

 

 今年は良いこと沢山ありますようにと祈ります。

 

(2012.1.2〜3)

 

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