○「本のページ」第5部 −ナマジの読書日記2011−

 

  2011年もダラダラと更新していきます。

<11.12.21>

○西尾維新「JOJO’S BIZARRE ADVENTURE OVER HEAVEN」集英社 人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」のトリビュート企画というのだろうか、ラノベ系の小説家がジョジョの外伝的小説に挑むというシリーズの第2弾だか3弾だか。この手の人気漫画のキャラクターや設定を使って、原作者以外が書くという企画は結構あるようで、今、飛ぶ鳥落とす勢いのアニメ・ゲームのシナリオライター虚淵玄が書いた「ブラック・ラグーン」小説なんかは当方も楽しく読んだ。こういう企画は原作漫画のファンである筆者が、その漫画への愛を込めて、人気キャラクターやら設定を上手く使って筆者なりの味付けで楽しませるエンターテイメント性にあふれるものが期待されていると思う。そういう意味でちょっと癖のある西尾維新が、自身の作中でもパロディーをちょくちょく出してくるぐらいに愛している「ジョジョ」をどう料理するのか、楽しみであった。実際に読んでみると期待の斜め上を行く感じであった。内容は基本的に、シリーズ中最大の敵といって良いぐらいジョースター一族と因縁の戦いを繰り返した「DIO」の残した「天国へ至る道」を記した手記という形を取っている。このDIOの意志を継いで天国を実現しようとしたのが、パート6での敵、プッチ神父であるのだが、当方6部の感想として「ラスボスの世界を幸福に導くための思想がいまいち理解不能<11.5.14>」と書いているように、時間を加速させる能力で世界を「1周」させてしまうのがなぜ「幸福」なのかは腑に落ちない部分だった。そのあたりを西尾維新流に謎解きして、DIOがその思考にいたったプロセスを、DIOの少年期の生い立ちから始まって、多くの部下のスタンド能力者のその能力が示す力を元に重ねてきた考察、もちろんジョースター一族との戦いから得られる考察などをもみっちりと積み重ねて、本編を補完しDIOの目指した、未来をあらかじめ知ることにより覚悟を持って向かうことができるという「天国」の概念をあきらかにするような形になっており、相変わらずそれがなぜ天国なのかはやっぱり理解不能だが、そうDIOが考えるに至った必然性は理解できた気がする。パート6のラスト周辺はシリーズ中もっとも難解な部分だと思うが、このミステリーも得意とする作家は、その謎にまったく本編から矛盾することの無い一つの回答を提示したと当方は理解する。なかなか面白い試みだと思うが、西尾維新が描くDIOが、本編に描かれていない場面で最強の悪役らしくダークに「そこにしびれる、あこがれるゥ」と唸らされるような活躍をすることを当然期待していたであろう「ジョジョ」ファンにはこれは受け入れられるのだろうか、と気になってアマゾンのレビュー欄を見てみたところ、案の定というか想像以上の不評ぶりで見たこともないほどの星1つの連発だった。まあ、普通はそんなもんだろう。当方は星4つつけていいと思う。が人様にはまったく勧めない。

 

○石丸元章「KAMIKAZE神風」文春文庫 高野秀行推薦エンタメノンフ本。神風特攻隊の生き残りへのインタビューを中心としたルポ。筆者はインタビューの対象者と同時にインタビューしている自身もルポの対象とするという手法をとっており、鹿児島ではキャバクラのネーチャン同伴で元特攻隊員にインタビューを敢行したりしている。最初読んでいて、ふざけているとしか思えない取材姿勢などに不快感をおぼえつつ読んでいたが、読み進むうちに筆者の、変に構えないありのままの自分をぶつけていく姿勢や、多くの特攻生き残りに出会い心境が変化していく様に共感を覚えずにいられなくなった。キャバクラネーチャンも特攻隊上がりのジーちゃんに対して、孫娘のような素直な疑問と尊敬を向けており意外にも好感が持てた。「先の戦争について特攻について興味も持たずに無視していくというのは、歴史の抹殺であり、バーミヤン遺跡をダイナマイトでぶっ飛ばしたのと同等の過ちではないか。」という説教には耳が痛い。特攻などというのは最低の作戦だったというのは多くの意見の一致を見るようだが、筆者も当方も特攻していった若者達がどういう気持ちであったのか、本当のところは結局分からない。それでも可能なら平和な世の中で一緒に酒でも飲んで馬鹿話でもしてケンカでもしたかったという筆者のセンチメンタリズムには共感を覚える。いまも世界では自爆テロなどというものが存在している。彼らは何を考え、どう感じているのだろうか、我々には分からないのかもしれないが、考え続けなければならないのではないかと思ったりもする。もし当方が、先の大戦時に少年であったならどういう人生を送っただろうか。結構ファナティックな軍国少年になってしまっていた気がしてならない。国のために、大事な人を守るためにという大義名分に抗うだけの直感力は当方には欠けているのではないだろうか。今現在も耳あたりの良い理念や賢しらな小理屈に流されてはいないか?気をつけていきたい。たとえそれが難しいことだとしても。

 

○森薫「乙嫁語り」1〜3巻ビームコミックス 最近本屋の漫画コーナーには試し読み用の1話分とかだけの小冊子が、平積みされている漫画の上に置いてあったりする。主に「この漫画がすごい」などで上位にくるような話題作の紹介として置いてあるのだが、意外にこれを読んで単行本を買ってみようという気になったことが少ない。既に読んでいて今更紹介されるまでもないというのも多いが、未読の作品で本屋お勧めになっている漫画は意外に当方の心にヒットしてこない。しかし珍しく今作はペラペラと読んでみて即購入決定した。何はともあれ絵が綺麗。話は19世紀ころのカスピ海周辺の中央アジアが舞台で、1、2巻は12才のカルルク君のところに嫁いできた20才の姉さん女房アミルを中心に当時の家族の日常や風習などを描いており、3巻では文化人類学者っぽいイギリス人探検家と未亡人のロマンスなどが描かれているのだが、中央アジアシルクロード文明に並々ならぬ興味と知識があるらしい作者の、描くのが楽しくて仕方ないという気持ちが伝わってくるような、細密な刺繍を施された民族衣装や絨毯、木彫りの家具などの描写が眼福である。作者もそういう細かい絵を描いているときに「生きているなあ」と実感するというようなことを後書きで書いているが、才能ある漫画家がその才能をのびのびと好き放題羽ばたかせている感じがありありとする。まだ3巻でしかも隔月刊誌連載らしいので続きを首を長くして待ち続けなければならないようだ。同じ作者の別の作品は無いのかとググったら、意外なことにこの作者女性だ。アミルの凛々しくも天然な感じの描き方などは男性的な視点で理想化された女性像だと感じていたので驚いた。しかし、この人の代表作はイギリスを舞台にしたメイドものでメイド大好きと公言しているようで、ちょっと女性としては変わった感性の持ち主なのかもしれない。でも間違いなく当方には面白い。中央アジアの空の青さを知っている人間としては続巻を楽しみに待たざるを得ないだろう。

 

○沙村広明「ハルシオン・ランチ」1・2巻アフタヌーンKC 題名に引かれて古本屋でゲット。何というか、むちゃくちゃに面白いナンセンスコメディー漫画なんだが、この面白さが分かる人間が果たしてどれだけいるのだろうかと不安になるようなマニアックなネタのこれでもかというてんこ盛り。ストーリーは基本SFで、会社の金を持ち逃げされ絶賛ホームレス中の渋いオッサン化野元(読み方は「あだしのげん」。当然「はだしのゲン」へのオマージュだろう)のところに宇宙からエネルギー獲得のために送り込まれた人型デバイスがやってきて騒動が始まるというありがち?なものだが、なんというか40前後のサブカル系のオッサンならいちいち引っかかって笑い転げるような小ネタ大ネタがたたみかけるように襲ってくる。そもそも「ハルシオン」はいけない遊びに使われて有名になった睡眠薬だし、人型デバイスの名前ヒヨスも幻覚剤かなんかだ。で、その人型デバイスはその惑星の上位種の雌型幼体の姿で活動するという設定で見た目はつり目クーデレ系の美少女。そのヒヨスは不思議な物理現象を巻き起こす箸で物質を圧縮し、鞄から、リヤカーから、ギンブナから、サワガニから、人から、家電から、うまい棒から、犬から、生ゴミから、廃ビルから何でも「もちゅもちゅ」という咀嚼音を立てつつ食う。食った上で一定時間内に吐き戻すと縮尺、比率がぐちゃぐちゃに混ざった状態の化け物が誕生する。吐いた後のヒヨスはちょっとセクシー。犬を食うときによく見ると小さな女の子っぽいイラストが添えられていて「ポシンタン」と書かれているが、このネタが韓国の犬料理「補心湯(ポシンタン)」から来て、備長炭をかわいくキャラクタライズした「ビンチョウタン」←そのまんまやんけ!やアフガニスタンをかわいくキャラクタライズした「アフガニスタン」←そのまんまやんけ!のような「タン」が語尾に付く系の萌えキャラになっているという事実にたどり着けるには、韓国食文化と日本萌え文化の双方についての素養が求められる。そのほかにも、ヒヨスが吐き戻したクリーチャーが人を食うシーンを表してゴヤの「サトゥルヌス」のよう、というあたりも「ギャラリーフェイク」で美術を学んでいないと理解できないネタだろう。カポエラの拳や肘を使う技しか使わないカポエラ使いの面白さが、カポエラという格闘技は手錠をかけられた奴隷が編み出したといわれる足技メインの格闘技、という説明無しに放りっぱなしで一般読者に理解可能だろうか。「美味しんぼ」副部長ネタも笑えた。事業仕分けによる科学技術予算削減の方針に「種子島終了かよ!」という怒りをぶちまける科学オタクな19才「メタ子」も良い味出しているが、時事ネタは作品の賞味期限を短くするからどうかと思うと作中でメタな発言があったりもして、ともかくネタにつぐネタの嵐で、それが理解できる者にとっては最高のエンターテイメントとなっている。当方は8〜9割理解できたつもりだが、若い人ついてこれないのと違うか?と心配したくなる。ヒヨスに食われて吐き戻された登場人物の「信じられないようなものを、おれは見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船・・・」という台詞、有名なSFの台詞だが、何だったか思い出せない「ハイペリオン」か「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」か、気になって仕方なかったのでググったら、電気羊惜しいっ!原作や!映画「ブレードランナー」の中での有名な台詞だった。こんなにオレ向きなネタを質・量ともに堪能したのは初めてかもしれない。当方にとっては傑作だった。

 

<11.12.11>

○田辺聖子「田辺聖子の小倉百人一首」角川文庫 なぜいま時分に百人一首を読みたくなったかというと、いま、「ちはやふる」という競技カルタを題材にしたアニメが深夜枠でやっているのだが、これがとても面白く、作中で読まれる句の響きが懐かしくもあり、思わず百人一首を読み返してみたくなったのである。

 古文の勉強していた高校生の頃なら、そのまま読んでもある程度解釈できるだけの素養があったはずだが、今はさすがに解説付きでないと楽しめないだろうと思い、堅そうな学者先生の解説ではなく、田辺聖子バージョンの解説で楽しむこととした。

 古いものでは万葉の時代の歌人のものも含まれるが、千年前の時代から今に至るまで多くの人に親しまれてきた短歌の数々はそれぞれに味わい深く楽しめた。聖子先生の解説も、適度に砕けていて面白かった。その歌の内容の解説だけではなく、歌人の他の代表作や、置かれていた状況、エピソードなども紹介されており当時の歌人達の歌にかける思いや、人間模様なども興味深く、よりいっそう歌の味わいが深まった気がする。

 今の時代も、歌謡曲などほとんどが恋愛を歌っているが、昔の歌人も同様で恋の歌が多い。いつの時代も人が歌うのは、というか虫でも鳥でも歌うのは恋のためが第一のようだ。

 「忍ぶれど 色にいでけり 我が恋は ものや思うと 人の問うまで」平兼盛と「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思いそめしか」壬生忠見、は百人一首の中でも評価の高い2首だそうで「こいすちょう・・・」は当方も耳が憶えている1首だが、この2首は時の帝の御前で行われた歌合わせの一大イベントの席で、最後のとりの勝負で読まれたそうである。甲乙つけがたい良い歌だったので、審判役は困ってしまう。帝は両方良いが勝ち負けを決めろという。審判困って帝に振ると帝はどちらの勝ちとも告げず、「忍ぶれど」を読み上げる。この時点で場は勝負あったととってしまう。帝が勝者を告げるために読んだのか、どちらも読んでみて比べるつもりだったのか今となっては分からない。壬生忠見は、都人ではなく地方の下級官吏で、この歌合わせは、大抜擢の一世一代の晴れ舞台であった。忠見は己の歌人としてのすべてをかけて、その舞台に恥じぬ良い歌を作ったという自信があった。実際、この勝負の勝敗については1000年後の今も論争があるぐらいの名勝負でどちらの歌も愛されている。しかし、忠見は負けたという知らせを聞いて落胆のあまりその後食事ものどを通らないようになり亡くなってしまう。このエピソードを読んで、誇り高い忠見の純粋な情熱と、負けてなお1000年歌われた歌の力、1000年伝えられてきた物語の熱に、当方の涙腺も緩むのであった。聖子先生も忠見の歌に軍配を揚げている。当方も、いかにも都のプレイボーイ風ですかしている兼盛よりも、初々しい青年の気配のする忠見の歌に1票入れたい。忠見よ嘆くな、よくやった。

 100首あると、玉石混交だと聖子先生も書いているが、読む時代や、同じ人間でも読む年齢などで、好きな1首は違ってくるのだろう。当方も若い頃好きだった1首がどれだったか思い出せない。今回読んでの1首は「思いわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり」道因法師だ。あまり評価は高くないようで聖子先生もわりとボロカスに書いている。たしかに恋の歌としては凡庸でパッとしない。でもこの道因法師のエピソードを読んでいると、「思いわび」は恋人をではなく和歌にたいする思いではないかとふと思ったりする。そう思うとなかなかに味わい深い。道因法師は和歌に並々ならぬ執着を持っていて、歌合わせで負けたりすると審判役に泣いて恨み言を言ったりするようなやっかいなオッサンだったようである。和歌が好きで好きで仕方ないのだが、飛び抜けた才能はなくどちらかというと負け犬人生。その道因法師が「思いわび」て「涙」流しちゃうんだもの。女じゃなくてきっと「歌」への気持ちだと思う。そう勝手に解釈すると負け犬組オッサンとしては共感せざるを得ない。

 とまあ、およそ人が芸術のテーマとして選ぶものは、万葉の古代から変わっていないようで、故に現代でも1000年以上前の歌人の歌った短歌を楽しむことができるのだが、芸術家というのは、そういった既に書かれている、既に表現されている古典を超えて新たな表現を生み出すためにいつの時代も切磋琢磨してきたのだろう。

 よく、歌でも小説でもアニメでも「最近は同じようなものばかりで良いものがない。」「ヒットしたもののコピーばかりで行き詰まっている。」という意見を耳にするが、当方はそうは思わない。おそらくいつの時代でもまったく同じことが言われてきたはずである。多くの作品は、その時代の流行にのった似たようなものの一つなのかもしれない。そういう膨大な表現者の挑戦の中に、ごくわずかに後世にまで伝わっていくような素晴らしいものが出てくるのだろう。当方は、今を生きる同時代の表現者たちが、突き抜けようとまさにもがいているその挑戦を共感を持って楽しんでいるし、今の表現物が過去と比較して劣っているなどとはまったく思わない。過去に生み出された作品にも古典となって残っている名作もあれば、忘れ去られていった駄作もあっただろう。

 間違いなく言えるのは、今の時代でしか表現できないであろう、面白い、感動する、心をつかまれるような作品はいっぱいあるということである。それらの多くは、今を生きる自分たちしか味わえない種類のものなのかもしれない。今回のように古典を紐解くのも楽しいが、当方は今のホットな作品にこれまでになかったような素晴らしいものが出てくるのではないかと期待しながら味わっていきたいと思っている。

 

 

<11.12.2>

○萩尾望都「半神」小学館文庫 山岸凉子作品をアマゾンで買ったので、関連して同世代を代表する少女漫画作家である萩尾望都の作品がお勧めされてくる。「ポーの一族」やら「トーマの心臓」やらは内容はほとんど覚えていないが読んだはずだ。「半神」は読んではいないかなと思い、紹介部分の粗筋を読んでみると確かに読んだ記憶がある。しかしえらい強烈なショックを受けたような記憶もあるのだが、どういうオチだったか思い出せない。気になったので購入。読んで納得。確かにこれはショックを受けるわ。10数ページの短編で、内容は腰でつながった結合双生児の姉妹の話。以下ネタバレ注意。

 妹は天使のような無垢な美しさだが、知的障害があり内蔵も機能しておらず、姉から栄養を供給されて生きている。姉は聡明だが、妹に栄養を奪われてしまうのか、痩せて貧相で髪の毛も抜けたりしている。姉は周囲の賛辞を集める妹に憎悪に近い感情を抱きながらも、どうにもならないものとあきらめて生きている。ところが、2人の成長に伴い姉の栄養失調がひどくなり、このままでは姉は遅かれ早かれ死んでしまうと診断される。姉が死ねば妹も栄養を得ることができなくなり当然死んでしまう。大人たちは姉だけでも生かすために分離手術により2人を引き離す決断をする。手術は成功し、妹は死ぬ。その後、栄養をとられることもなくなり美しく成長した姉の胸に去来する「思い」が昔読んだときも、今回もひどく当方の胸をえぐった。ストーリーはシンプルで短いのだが、人間の感情の奥の方の血にまみれたような部分をベロッと見せられたような強烈なショックをおぼえる。2回も楽しめて得した気分だ。

 

○石川直樹「最後の冒険家」集英社文庫  熱気球での単独太平洋横断に挑戦しそのまま行方不明となった神田道夫の冒険について、太平洋横断の最初の挑戦時に同乗パートナーもつとめた日本の若き(もうそんな若くもないか?)冒険家石川直樹が書く。開高健ノンフィクション賞受賞作。当方、恥ずかしながら神田道夫氏についてまったく知らなかった。熱気球で太平洋横断しようとして消息不明って「風船おじさん」のことか?ぐらいの認識だった。失礼しました。ガツンと面白かった。役場勤務という普通のサラリーマンが、自分の夢に向かって邁進していく様に共感と賛辞をおぼえた。最後に消息不明となってしまったのは残念で仕方ないが、石川直樹が彼の物語を語ってくれたことに感謝したい。筆者の石川直樹は、世界の最高峰も極地も踏破された今、そういった地理的不踏点を競うような形の「冒険」はもはやないといい、太平洋横断に自作気球で挑戦した神田を最後の冒険家と呼び、自分は冒険家ではなく旅をしているだけだと書いている。しかし一方で毎日生きて行動するすべてが新しい試みであり「冒険」であるとも書いている。冒険とはなんぞや?という問いについての非常に示唆に富む回答の一つだと思う。いずれにせよ、わかりやすい「冒険」が無くなった今の時代、冒険を冒険たらしめるのは、当方はその「冒険」に内包される「物語」だと思えてならない。緯度経度や高度といった数値で冒険の価値がはかれなくなった今、冒険はその内にはらむ「物語」によって、個人個人が、その価値を計るしかないような気がしている。そうだとすると語られなければその「冒険」は冒険家一人の内に秘められたものとなってしまう。冒険の物語を語るためには、映像、写真、文章、言葉などいろいろな手段があると思うが、石川直樹のような写真も撮れて文章も書ける冒険家には是非とも自らの冒険の物語を語って欲しいし、今回のような素晴らしい冒険家の物語についても語っていって欲しいと思う。

○島津法樹「魔境アジアお宝探索記」講談社プラスアルファ文庫 骨董屋の筆者が、戦乱間もないカンボジアを始め、アジアの辺境の地に赴き、時に博物館クラスの掘り出し物に驚喜し、時に怪しい輩と丁々発止の化かし合い、時に拳銃突きつけられて危ない目に遭ったりしながら骨董を仕入れていく。多少の脚色もあるだろうし、時には書けないような悪いこともしてそうな雰囲気だが、書かれたエピソードはどれも面白くぐいぐい引き込まれる。金儲けのために骨董品取引に血道を上げているのだが、「美」やその背景となる歴史文化を愛し、ちょっぴり人情家でホロリとさせたりもするところは美術蘊蓄漫画「ギャラリーフェイク」の主人公フジタを思い起こさせる。当方美術にはあまり興味がなく、美術の知識は中学の美術の教科書と岡本太郎の著作、前述のギャラリーフェイクで学んだもの程度なので、正直「骨董仕入れ」の旅なんて読んでも楽しめるかどうかわからなかったが、高野秀行推薦のエンタメノンフ本なので読んでみたら十分以上に楽しめた。高野氏推薦本はまだいくつか積んであるので読むのが楽しみだ。

 

<11.11.19>

○椎名誠「ひとつ目女」文春文庫 椎名誠は熱心なSFファンであると公言している。自身でも独特の椎名ワールドと呼ばれる一連のSFものを忘れた頃にぽつりぽつりと書いてくるのだが、これがかなり面白い。今作も以前の作品とどこかつながった世界のようで、バイオテクノロジーを使って大規模な生態系の破壊による都市への攻撃や、兵器として改造された生物たちや、人造人間?ツガネの投入された全世界的な戦争の後の混沌とした世界を舞台にしている。主人公が、「ラクダを探してこい」という依頼を受けて物語が始まるのだが、ブルーシートのテントが立体的に構築された日比谷公園から、トラブルに巻き込まれラクダと一つ目の女を連れて、途中で案内人の雲去も加わり、ロシアとおぼしき港町等を経由して、中国の奥地のような町「空芯」へと旅をしていく。物語的には最終的にラクダと一つ目女の謎らしき部分に迫って終わるのだが、とにかく出てくる架空の改造生物やら、兵器やらが何というか、実際にありそで無さそな良い塩梅の説得力があって面白い。と思って読んでいたら今回の一つ目女の謎の理屈の所に、羊が妊娠14日目にコバイケイソウという植物を食べると、神経発生の段階にある胎児が影響を受け一つ目の子供が生まれるサイクロパミンという現象がでてきた。驚いた。バイケイソウのアルカロイドで山羊に一つ目の子供が生まれるサイクロパミンという現象は実際に存在する。生物毒に興味があるので(なぜそんなモノに興味があるのかは深く詮索しないで欲しい)たまたま知っていたが、そんなこと知らずに読んでいたら完全に椎名誠の創作だと思ったに違いない。上手な嘘には真実をたまに混ぜると良いと聞くが、まさにその通りで、これまで楽しんできた椎名ワールドのへんてこ生物や不思議機械には実は本物も混ざっているのではないか、とにわかに不安になってきた。オレが知らないだけでツガネは湾岸戦争あたりで実戦投入されていたりするのか?サキヌマドクタラシは実在して、東南アジアあたりの湿地帯で知らずに足を踏み入れると、気づいて足を引き抜いたときには骨だけにされてたりするのか?なかなか椎名ワールドは味わい深いのである。

○夢枕獏「新・餓狼伝 巻の二拳神皇帝編」 あとがきで作者自身も、「もう完結しなくてもいいや」と投げやりになっているシリーズもの新章第2弾。バーリトゥード大会何戦目だったかすでに忘れたが、主人公の空手家丹波文七対カイザー武藤(ジャイアント馬場がモデル)戦とライバル空手家堤城平対巽真(アントニオ猪木がモデル)が中心。読んでて血湧き肉躍る感じ。ああオレは格闘技好きなんだなと思う。

 最近日本では一時の格闘技ブームは去り、今年はとうとうK−1も開催されないようだ。K−1をとりあえず買収したのはヨーロッパの団体「イッツショータイム」で、これからは、やるとしてもイッツショータイムの日本予選みたいな感じになるのか?すでに主力選手はヨーロッパを主戦場に移していたり、プロレスに参戦して「営業」していたりする。総合格闘技、ミクスドマーシャルアーツ(MMA)のほうは、アメリカの老舗団体UFCが覇権をとって統一団体的なものになりつつあるという状況か。ヨーロッパが立ち技主体のキックボクシング、アメリカが金網で闘う総合格闘技というのは、ある意味象徴的だ。ヨーロッパでも特にオランダは格闘技が盛んだ。オランダのアムステルダムあたりは風車とチューリップのイメージとはちょっと似つかわしくないが、大麻が黙認されているぐらいのわりと退廃的なダークな街でもある。彼の地では喧嘩が強いと用心棒としての職があるのでキックボクシングを始め格闘技が盛んだという説を読んだことがある。なるほど用心棒なら、店の中で乱闘になったときにいちいち寝技をかけていたら踏みつぶされてアウトである。パンチとキックで相手を黙らせていくのが必要不可欠な技術だろう。アメリカのUFCではオクタゴンと呼ばれる8角形の金網のゲージ内で選手が闘う。選手二人を放り込んで、どちらか強い方が勝って出てくるのを市民達が高みの見物をするという図式は、古代ローマの剣闘士の戦いを思いおこさせる。今も昔も繁栄を極めた国の民にとって最高の見物は、戦士の命をかけた戦いということか。UFCは日本興行も予定されているようで楽しみだが、日本のPRIDEやらヒーローズやらを主戦場にしていた当方のひいきの選手達が、UFC移籍後は軒並み負けまくっているのが悔しくてならない。細かいルールの違いやら、リングと金網の違いなども原因といわれているが、一番は全盛期を日本で迎えていた選手はそろそろキャリアの下り坂にあるからではないかと思う。ヒョードルやミルコは全盛期の輝きを取り戻すことなく引退していった(ヒョードル、M−1グローバルという団体で復帰してた。)。山本KIDも秋山も負けがこんでいる。あの憎たらしいぐらいに強かったヴァンダレイシウバでさえ負け越して引退がささやかれているぐらいだ。日本人で活躍しているのを聞くのは岡見選手ぐらいだが、日本であまりなじみが無く当方もどんなファイターか正直知らない。そろそろWOWWOW契約してUFC観戦を楽しむべき時期かもしれない。きっと新たにファンになってしまうような魅力的な選手はいっぱい居るのだろう。地上派では流行の時しかやらないから、当方のようなマイナーな趣味が多い人間は、地上波は見捨ててペイパービューを楽しむべきなのかも知れない。今の時代、世界中から見たい番組を選ぶことができる。言葉なんか格闘技見るには問題にはならない。

 今の日本の地上波で見ることができる格闘技は、ボクシング、柔道、相撲ぐらいになってしまった。ボクシングは文句なしに面白い。球技のサッカーが手を使わない不自由から逆に創造的な面白さが生じているように、ボクシングでは握った拳(BOX)のみしか使えないという不自由さから、ものすごいテクニックや戦術が創造され洗練され、それでいて殴り合いという闘争の根源的、原始的ともいえる部分の純粋性を失っておらず奇跡的に面白いスポーツだと思う。日本人チャンピオンが沢山いるのも嬉しいことだ。本場アメリカでは人気のない軽量級クラスばかりだという評価もあるが、軽量級には軽量級の面白さがあるし面白くないという理由が理解できない。本場ラスベガスでメインを張った西岡選手も居るし卑下するようなことはないだろう。

 柔道は世界大会など大きな大会は放送があるので嬉しい。柔道はスポーツとなって久しいが、実は何でもありの殺し合いから打撃と噛み付き目つきなどの反則系を抜いただけとみることができる。実際、柔道からの総合格闘家への転身は吉田秀彦を筆頭に成功例が結構あり、柔道を極めていれば後は打撃系を身につければ今の総合格闘技に通用しそうな気さえする。そんな柔道において面白いのは、外国人選手があくまでスポーツとして、ルールの中で優勢勝ちやらかけ逃げやらのテクニックを当然使ってくるのに対して、日本の選手はまだ「道」として勝つための試合運びをして一本勝ちで仕留めることにこだわっているところで、そのあたりの駆け引きのおもしろさと、瞬間的な攻防のなかで技が綺麗に決まったときの爽快感がなんともいえず面白く引き込まれる。

 相撲に関しては、正直最近つまらないと感じている。朝青龍が引退してからは興味が無くなってみなくなってしまった。相撲というのは神に捧げる戦いであるはずだ。八百長があろうが無かろうが、そんなことはどうでもいいが、ほんの短い時間の中に凝縮したほとばしるような闘志を込めて闘うべきものだとおもう。最近そういう闘争心にあふれた力士が見当たらない。太った優しそうなアンちゃん達が押し合いしているだけと言ったら怒られるだろうか?それでもあえて苦言を呈したい。もっと鬼気迫るような闘志をむき出しにした闘いを見たいのだ。相撲の起源とされるノミノスクネとタイマノケハヤの闘いでは、ノミノスクネがタイマノケハヤを踏みつけて殺して完全決着をつけている。もちろん今の相撲はそんな殺し会いを認めるような危ないルールにはなっていないが、そういうやるかやられるかの殺気をはらんだ取り組みが見たいのだ。千代の富士がうるさく突っ張る寺尾を怒りとともに土俵にたたきつけたような、小錦がボクサーのようにフェイント織り交ぜながら張り手をぶちかましていったような、ここぞというときに裂帛の気迫で相手をなぎ払って勝利をかっさらっていった朝青龍のような、そういう相撲がまた見たいのである。協会は日本人横綱の育成よりも、むしろハングリー精神あふれる朝青龍のようなダークヒーローを世界中から探してきてでも土俵に投入するべきだと思う。土俵に命がけの緊張感が生まれ気迫あふれる取り組みが生まれるなら、相撲は生き残れると思うのだが。

 

<11.11.11>

○西山徹「ありがとう魚たち。面白かったよ、世釣り人生!」釣り人社 2001年の出版時には読んだら悲しくなってしまうのがわかっていたので読めなかった。10年待って読んでみた。歳を食うと涙もろくなって困る。涙でなかなか読み進めなかったやないか。テツ西山氏、ガンで3度の臨死体験を経験しながらも、手術し、やせ細った体で、リハビリといいつつアユ釣りに情熱を燃やす。思うように動かぬ体に苦労しながらも5匹で充実した思いを得ることができ、釣りができるようになっただけでこみ上げるうれしさを率直に書いている。次の年に亡くなられたのだが、病に倒れた後、一時でもこのすばらしい釣り人の人生の最後に、川で竿を出し魚を釣る日々を用意してくれたことにたいして、もし釣りの神様が居るのなら、本人にかわって感謝したい。

 魔力かなんかで異世界から一人だけ釣り人を召還して一緒に釣りができるのなら(今伝説の英雄を召還して闘わせるアニメを見ているのでその影響)、当方は、太公望でも、アイザック・ウォルトンでも、フランクソーヤーでも、ヘミングウェイでも、ゼーン・グレイでも、アルフレッド・ディーンでも、服部名人でも、釣りキチ三平君でもなく西山徹氏を選びたい。いやしかし、自分の父方の祖父というのも若くして亡くなっているので会ったこと無いのだが、かなりの釣り師だったと聞いているので一度手合わせしてみたい人だし、ちょっと迷うな。あなたなら誰を選ぶ?

 

○高野秀行「辺境中毒」集英社文庫 高野秀行は面白いというのが最近は世間にも認識され始めているようで、彼の提唱する「エンタメノンフ(ノンフィクションなんだけど重いだけでなく面白い本)」のコーナーが本屋にできたりして、1ファンとしても鼻が高い。ようやく愚民共にも高野氏の面白さが分かり始めたか。という感じだ。今回は、対談や書評、エッセイなど短文を集めた一冊となっているが、あいかわらず面白い。対談の相手に「世界ト畜紀行(トが変換できない)」の内澤旬子氏やUFOやらUMAにも並々ならぬ造詣の深さを誇る大槻ケンヂ氏あたりが選ばれているのも嬉しい限り。後半のエンタメノンフ・ブックガイドでは高野氏お勧めの本が紹介されていて、「ト畜紀行」や「にょろり旅」、タマキングなど当方も愛読している本の他にも面白そうな本が紹介されていたので、今日もアマゾンに発注をかけるクリック音が部屋に響くのであった。

 

<11.10.8>

○石田衣良「ドラゴン・ティアーズ 池袋ウエストゲートパーク9」文春文庫 人気シリーズ第9弾。安定して面白い。主人公は池袋駅前の商店街の青果店の跡取り息子。フルーツを売りつつ街のもめ事を解決するトラブルシューター。街のガキ共を束ねるクールな王様や、利に聡いが義理には厚いやくざの幹部候補の幼なじみ、盗撮盗聴お手のモノのお宅野郎、人情と行動力のお母さんといった仲間と共にややこしい問題をさばいていく。その時々に社会で問題になっている事項にスポットを当てながらも、スッキリと気持ちよい結末が用意されていて安心して読めるエンタメ作品だ。今回も不況によるホームレスの増加や外国人労働者(研修生)なんかがテーマになっている。現実はこの作品のように綺麗にはオチがつかない。悪ガキ共は何しでかすかわからないご時世だし、やくざが正義の味方をするとも思えない。だからこそ、この作品のような胸のすくエンタメが読みたくなるというものだ。

○梨木香歩「ぐるりのこと」新潮文庫 筆者が、アメリカとイスラム社会について、土壌生物と植物について、子供達の心について、生命について、さまざまな自身をとりまく「ぐるりのこと」について、考え続け、物語を書きたいという気持ちを綴ったエッセイ。一つ一つの事象に手を抜かず向きあう姿勢に感服する。共感する部分が多かった。筆者は「明晰性」に惹かれると書いていたが、筆者の文章の特徴を表す言葉として「明晰」という言葉が当てはまるような気がする。

○北杜夫「南太平洋ひるね旅」新潮文庫 マンボウ先生の本は中学生のころ好きでよく読んだ記憶がありおそらくこの本も読んだことあるはずだが、全く憶えていなくて新鮮に読めた。まだ外貨の持ち出し制限があった頃の南への旅。ハワイの日系人文化や当時のまだ観光地ではなかったころの南の島々の様子がなかなかに興味深かった。

○秋道智弥「ハワイ・南太平洋の謎」光文社文庫 ハワイと南太平洋の島々の欧米の影響以前の文化を紹介している。交易物の追跡から広く島々で交流があったことがわかることや、興味深い漁の文化等、わかりやすく紹介されており南太平洋を旅しながら興味深く読めた。

○本谷有希子「グ、ア、ム」新潮文庫 対照的な性格の姉妹とその母の3人がグアムに旅行に行く話。この人は独特な女性の心理描写にすばらしく切れがあるのと、ゆるいユーモアの感覚がツボにはまる。芥川賞候補に何度かあがっては選に漏れているが、当方は支持する。かなりやる作家だと思う。

 

<11.9.14>

○深夜アニメ「シュタインズゲート」未来ガジェット研究室制作 録画してあった昨夜の最終回を視聴したところである。24回にわたる放送だったがすばらしく面白かった。その感想を書く前にちょっと昨今の深夜アニメ事情について紹介したい。

 当方は学生時代に「テレビ」というメディアの視聴者を舐めきった鼻持ちならない姿勢が我慢ならず、視聴をやめた。今「テレビ」自体がインターネットを中心とする様々な情報メディアの波にのまれ斜陽化しているのをみると「ザマミロ」と胸がすく思いすらする。その後、同居人が一緒に住むことになり「テレビを買え」と要求されテレビも見られるパソコンを買うことになり、なし崩し的にテレビの視聴を再開したのだが、長い間テレビというモノから離れていた。当然その間はテレビアニメもみておらず、世のアニメ事情には疎くなっていた。テレビを見ていない間も、漫画は読んでいたので漫画原作のアニメが昔は多かったのでまあ押さえるべき作品は押さえているかなと思っていたのだが、「新世紀エヴァンゲリオン」を10周年だかのYAHOOの特集をきっかけに見て衝撃を受けた、同作品はアニメオリジナルなのだが、「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」と並び賞される時代を象徴するような衝撃的なアニメだった。パチンコやらグッズやらの展開も大当たりをかまし、作中の有名な台詞やエピソードなどは、真性のマニアだけでなく「ちょっとオタクな」程度の一般人にももはや教養といって良いレベルで浸透していて、先日読んだ社会生物学の解説本では、女王がクローンを作る蟻の紹介に「綾波レイのように「私が死んでも代わりはいるもの。」ということか。」という解説がされていた。作中人気キャラの綾波レイが主人公の母親ベースのクローンであることは特に説明もなくシレッとしているが、大多数の読者に理解できるという判断なのであろう。3.11の後のネット上での節電呼びかけの作戦名は「ヤシマ作戦」だった。これは作中で近距離からの攻撃を全く寄せ付けない敵に対し遠距離から膨大な電力を使用する兵器を用いて対抗した際の作戦名である。作中では作戦遂行のため日本中を停電にして電力をかき集めている。ちなみに「ヤシマ」は那須与一が扇の的を打ち落とすエピソードで有名な「屋島の戦」から。

 ちょっと脱線したが、「新世紀エヴァンゲリオン」をみて「これはいろいろ見逃しているな。」ということで、ネットでの評判などをたよりに面白そうなアニメをみてみるようになった。ネットにはアニメのデータベース的なサイトや、面白いアニメを紹介しているサイトなどがごまんとあるので参考になる。そうやってオッサンになってから再びアニメを見るようになると、昔とはテレビでのアニメの放送事情が若干変わっていることに気づかされる。昔のテレビアニメといえばゴールデンタイムの夜7時とかに1年単位とかの長期で放送されていたように思うのだが、そういうアニメは今はあまりないようだ、日曜朝の子供向けアニメと夕方のサザエさん、ちびまる子ちゃんは健在だけど、いまやテレビアニメの主流は深夜に放送されているものとなっているようにみうけられる。見ない人は全く気づいてもいないと思うが、実は深夜の枠で毎週放送されているアニメは20作以上あって、かなりの活況なのである。これらのアニメは12話を1クールとして、1クールか2クールで放送されることが主である。評判が良いと第2期、3期と続編が作成されたり劇場版が作られたりする。春夏秋冬の季節ごとに各局一斉に番組改編で新しいアニメが始まり、アニメ紹介サイトではあれこれ前評判が飛び交い、どれを見ようかどの作品がヒットするかとかまびすしい。深夜枠ということで、視聴者層のボリュームゾーンは比較的高年齢のいわゆるオタクたちである。というわけで「エロ」や「萌え」を売りにしたちょっといい年こいたオッサンが視聴を公言するのははばかられるような作品もあるのだが、どちらかというと単純にそういうニーズに特化した作品は少なく、深夜ならではの実験的、意欲的なオリジナル作品もあるし、もちろん漫画、小説を原作とした良作もある。世界的に評価されているジャパニメーションの主戦場はいまやこの深夜枠らしく、多くのクリエーターがしのぎを削り、様々なテクニックを駆使した映像美や引きずり込まれるようなシナリオで唸らされることも多々あるのである。アニメはある意味もっとも先鋭的な表現分野であることは確かであり、たかがアニメと軽んじて見逃しては日本に生まれこの時代を生きていく上でもったいないことこのうえないと思っている。いずれにせよ沢山放送されているので毎シーズンいくつかは気になる作品があり、今期も5作品ぐらい録画して視聴している。深夜ということで視聴率的にはたいしたことにはならないので、人気をはかるバロメーターは主にDVDやBDの売り上げと、原作ありのモノなら原作の売り上げ増、あとはネット上での盛り上がり方である。ネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」の関連スレッド数が盛り上がりの指標となったりしている。必ずしも前評判が良い作品や、作り手側が力を入れて宣伝やメディア展開を図っているものがヒットするかというとそうではなく、盛大にこける作品もあれば、最初それほど評判でなかったものが、放送を重ねるにつれネット上「騒然」となるような話題をかっさらっていく作品もあったりして面白い。当方が面白いと思ったものがヒットするとも限らないので、自分の好きな作品が人気がないとちょっと残念だし、逆に人気が出ると妙に誇らしかったりする。ネット上のオタクたちも概ね同じような気風らしく、ファンとアンチが口汚くののしりあうのは見ていて「なんだかなー」とあきれるとともにほほえましくもある風物詩だ。

 今回紹介する「シュタインズゲート」という作品は、原作がゲームだそうだ。「ゲームが原作?」というのは最初よく分からなかったのだが、シナリオに沿って選択肢を選択しながら必要なイベントを通過していきハッピーエンドを目指す種類のゲームがあるのだそうだ。原作のゲームはファン曰く10年に1本出るかでないかレベルの「神ゲー」だそうで、前評判もかなり高かったので期待して見始めた。最初、いまいち盛り上がりに欠けるというかなんというか評判ほどでもないなと思っていたのだが、ネット上では「最初の方は伏線を張っている段階なので退屈かもしれないけど、後半、伏線回収しながら盛り上がりまくるから、シノゴノいわずに細かいことも見逃さず最後まで見ろ。」という書き込みがあったので信じて視聴し続けた。信じるモノはむくわれた。以下ネタバレ注意で。

 お話はタイムマシンもののSFで、タイムマシンの開発を目指す、自称「狂気のマッドサイエンティスト」という「痛い」性格の主人公を中心に、相棒の腕利き電脳エンジニアなオタク野郎や幼なじみ、タイムマシンの基礎理論で一流科学誌に論文掲載された天才少女、研究室の入るビルのオーナー、未来から来たとネットに降臨して話題になったジョン=タイターなる人物、謎の組織などが絡みつつ展開していく。主人公の研究室では「電話レンジ(仮称)」という、原理不明ながら過去に携帯メール程度の情報を飛ばすことができる装置の開発に成功する。実験を重ねながら、天才少女の助力もあり最終的には人の意識を圧縮した情報としてメールに添付して送信することで、未来の記憶を持って過去に存在することを可能とし、主人公は実質的に過去にタイムワープすることに成功する。主人公たちは成功を喜び結果を公表しようとするのだが、その前祝いの仲間内のパーティーの席に、未来でタイムマシンの技術を独占し世界を支配した企業からの刺客が乱入、タイムマシン開発に関わったメンバーはその知識を利用するために捕らえられそうになり、知識を持たない幼なじみはその場で射殺されてしまう。絶体絶命のピンチだが、これまた未来からきたレジスタンスに窮地を救われ、主人公は幼なじみを守り救うために過去を改変しに行くのだが、何度やっても方法を変えても、幼なじみの死という結果は変えることができない。未来からの来訪者から、大きな運命を変えるためには、現在いる運命と別の運命を有する「世界線」に移らねばならず、そのためには一定以上の改変の積み重ねが必要であるとの情報を得て、主人公はこれまで実験で改変してきた過去をあれやこれやの困難に直面しながらも一つ一つ元に戻していく。同時に未来からの来訪者は、第3次世界大戦を経て1企業が世界を支配するという暗黒な未来を改変するためにタイムマシンでさらなる過去に遡る。しかしながら、未来からの来訪者の過去改変は失敗に終わってしまったうえに、主人公の過去を元に戻す作業は、最後の最後でそれを行えば天才少女の死を意味することがあきらかになる。第一話を思い出すと確かに天才少女が血まみれで倒れているシーンが伏線として張られていた。何度も何度も幼なじみが死ぬのを目の前にし、最後の最後でその死を避けるには別の死が必要という現実を突きつけられ主人公は絶望する。その様子を見て天才少女は重大なことが起こっていることに気づき主人公に説明を求める。結果、2人は幼なじみを助けることを選択する。天才少女は最後の改変の前に主人公のことを好きになっていることを告白し、主人公も同じ気持ちであることを伝える。改変後、主人公は半ば無駄と知りつつも、天才少女の死を避けることはできないかと奔走するが、その死は最悪の形で起こってしまう。その時、深い絶望に沈む主人公の前に・・・、オオオッ!と唸ってしまうほどめちゃくちゃスッキリする運命への反撃的展開。そして、ラストは・・・。

 良い終わり方だった。気持ちよい開放感のある終幕。面白かった。こういう作品が見られるからオッサンになってもアニメ視聴はやめられないというものである。ノベライズもされているようなのでラストが気になった人は、小説版でも、もちろんゲーム版でもアニメ版でもいいので自身で確かめて欲しい。全然「本」の話じゃないけどまあたまにはいいでしょう。

 

<11.9.12>

○西尾維新「少女不十分」講談社ノベルズ 西尾維新という作家はミステリーとライトノベルを中心に活躍している若い作家で、キチガイのようなペースで物語を書き続けることでも名を馳せつつある。何しろ現在、3ヶ月に一本ペースでシリーズ物の新刊を出しながら、週刊少年漫画誌で原作を担当し、作品の劇場アニメ化プロジェクトが進行中というハードスケジュールながら、本作のような書き下ろしまで書いている。ネットでは「西尾維新はシリーズ物や漫画原作などルーチンものを書くのに疲れると、休憩として別の作品を書いている。」とまことしやかに語られている。過去には12ヶ月シリーズ連続刊行というアホな企画で12ヶ月一度も原稿を落とさず書ききった強者である。それでも書くものがつまらなければ意味はないが、当方は3ヶ月に一度出る「化物語」シリーズが待ちきれないぐらい楽しみにして読んでいる。そろそろ新刊でたかなと思って講談社のノベルズコーナーに立ち寄ったら、書き下ろしの新作が出ていたのでその書きっぷりに恐れ入りつつ、手に取ってみた。表紙にまずやられた。当方性的な嗜好は、多少Mッぽい気がしない訳ではないが、まあ通常の範囲内で極めてノーマルな健全な成人男子だと自分では思っており、ロリータコンプレックスの気は全くないつもりなのだが、それでも表紙の赤いランドセルに白いブラウス、チェックのスカート、リコーダーを手にした妙に蠱惑的な少女に目を奪われてドキッとしてしまった。危ない危ない。そちらの方に目覚めてしまっては犯罪者への道まっしぐらである。気を取り直してパラパラと読み始めると、作者の10年前のトラウマとなった事件を告白するという形でものがたりが始まった。面白そうなので購入。読んだ。ちょっと道を誤ってしまうような方向で官能的な展開があるのかしらと期待していたが、そういう話ではなかった。物語を紡ぐしか能がなくコミュニケーション能力を著しく欠くと自認する若き日の筆者が巻き込まれた、少しいびつな精神を持ってしまった少女が起こした事件について書かれている。ちょっと癖のある文章だが面白かった。筆者が少女に語って聞かせたという物語のテーマである「道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、そこそこ楽しく面白おかしく生きていくことはできる。」、「いろいろ間違って、いろいろ破乗して、いろいろ駄目になって、いろいろ取り返しがつかなくって、もうまともな人生には戻れないかも知れないけれど、それでも大丈夫なんだと、そんなことは平気なんだ。」というメッセージは、今この時代において多くの者にとって福音であるかもしれない。今日本には、職に就けずに引きこもっているニートやら、働いても働いても楽にならないワーキングプアやらがあふれている。彼らは「なんでこの年にもなって、職やまともな収入がないという状況に陥ったのだろう?」、「大人になったら普通に就職して結婚して幸せな暮らしができると思っていたのに。」と当惑しているだろう。なんだか知らないけれど日本は普通に幸せになるのがすごく難しい国になってしまったように感じる。そのくせ「普通」でない者をみつけると、よってたかって排除にかかり、「普通」でないものを異端視する。そういう世の中で「普通でなくても大丈夫なんだよ」というメッセージはとても優しく感じられる。当方も、あまりコミュニケーション能力高く要領よく世の中を渡っていけるタイプではなく、表面上は何とか繕っていても、自分は「社会不適合者」なんだなあと感じることも多いので筆者のメッセージは心に染みた。いろいろ間違うかも知れないけれどそれでも何とか生きていきたいと思う。

 

<11.9.3>

○大槻ケンヂ「くるぐる使い」角川文庫 久しぶりに読みたくなって押し入れの段ボールをひっくり返したのだが出てこなかったので仕方なくアマゾンで古本を購入。届いたので読む。改めてみるとちょっと目がイッちゃている表紙の女の子のイラストは高橋葉介先生だったのか。ゾゾゾと背筋に寒いモノが走るけどちょっぴりユーモラスな要素がふくまれている本書の味わいとよくマッチした選考だとおもう。本書は大槻ケンヂの初期の短編集でちょっと独特のホラータッチのSFっぽい作品群である。5編のうち「くるぐる使い」と「のの子の復讐ジグジグ」が2年連続で日本のSF大賞ともいうべき星雲賞を取っている。

 当方は、「キラキラと輝くモノ」と「くるぐる使い」がとくに好きだ。大槻ケンヂはUFOやら超能力やらのオカルト系のマニアックな知識が豊富で、それらが生かされた一ひねりのある短編となっており、かつ、初期の頃の彼の紡ぐ物語はどこか救いようが無く、もの悲しい結末のモノが多く当方の心の琴線に触れる。

 「キラキラと輝くモノ」はUFOにさらわれたと主張する少女と兄の物語。UFOによる誘拐は実は・・・という、今時ならそれほど驚きでもないけど、当時はそういう「オチ」もありかと感心しつつ、それにしても救いがねえな、とさみしい気持ちになったモノである。

 「くるぐる使い」は、精神を病んだ故に他人の心の奥をのぞいてきたような言葉を発する能力を授かった娘「くるぐる」を見せ物にする「くるぐる使い」が死ぬ前に語った話、「くるぐる」の恋とその悲しい結末はなかなかに泣かせてくれる。

 大槻ケンヂは旅行先のバリで試したマジックマッシュルームのバットトリップが原因(と自身で分析している)で不安神経症に悩まされ心療内科通いの日々を一時期過ごしていたのだそうだが、そのときあまりにもUFOに熱中する大槻にたいして主治医は「UFO禁止令」を出したというアホなエピソードを自身のエッセイで披露している。しかし、その病的なまでに執着したUFOやら超能力やらの知識は無駄にはならず、作品の背景をしっかりと固め抜群の面白い作品を生み出すに至っているように思う。非常に特殊で代わりのいない作家だと思う。長生きして音楽だけじゃなくたまには本も出してくれと願う。

 

○梨木香歩「沼地のある森を抜けて」新潮文庫 すごい1冊だった。梨木香歩というザクザク砂金の獲れる川を遡っていったらドでかい金鉱脈にたどり着いたような感触。「生命」とは、「個(おのれ)」とはなんぞやという根源的な疑問に、現代の生物学的な知識を踏まえた上で、作者得意の「人間」以外のモノに意思が宿るという設定を用いつつ、力一杯書き上げた渾身の一撃と思われる。

 主人公は企業の他社製品の成分分析などを行う研究機関に勤める独身女性。叔母が心臓麻痺で死亡して、マンションと先祖伝来の「ぬか床」を引き継いだところ、ぬか床から卵が産まれ少年が孵化し物語が展開していく。

 ぬか床の謎を追ううちに明らかとなる、主人公の先祖が住んでいた島とぬか床から生まれる人々との関係。島への旅をともにする、男であることを放棄した微生物の専門家とともに、ぬか床を巡る議論は命を、そして性を得て自分と異なる子孫を残すことを選択した我々人間も含めた多くの生き物のあり方に迫っていく。

 現代において、生命の謎が、分子生物学的な遺伝という視点からのアプローチや、また社会生物学的にかなり詳しく解明されつつある。その内容はまさに「生命」や「個(おのれ)」とはなんぞやという一昔前なら哲学的であった問いに一定の答えを出しつつある。逆にいえば、それらの問いを扱う生物学において、非常に哲学的な思考が生じざるをえない状況であると感じている。我々は「生命」の謎に良いところまで迫っているのではないだろうかと思う。一昔前の人が考えるときよりも多くの考慮すべき事象が科学により与えられ、「生命」とはなんぞやという問いにはより深く迫ったアプローチがなされてしかるべきだろう。

 そういった意味で、本作品の中での主人公が、ぬか床の中から繰り返し生まれる性を持たないであろう命と、自分たち性を持つ生き物を比較して「生命」とは「個(おのれ)」とはという問いに迫っていくアプローチは、今の時代に求められている生命の哲学の本流に位置するものだと感じた。

 本作品は当方にとって難解な部分も正直多かった。サブストーリー的に進行する、分裂して増えていく意思を持った人間に似た存在が、仲間から離れて、海水の侵入を防ぐゲートを解放してアザラシの娘と交わっていく物語は、何を暗喩しているのだろうか。主人公がたどっているメインのストーリーを、島の「ぬか床」生物の視点で見たモノなのか、それとも、最初の「性」の発現とでもいうべき、単細胞生物が他の細胞を取り込むシーンの暗喩なのか、はたまた、別進行の並行的なストーリーなのか、それとも当方は見当違いの読み方をしているのか。

 最終的な「生命」、「個(おのれ)」についての議論の結末的なモノも、書かれていたのか、謎のまま残されたのかもラスト近くのシーンは幻想的で比喩的な表現が多く理解し尽くしたとは思えない。

 それでも、登場人物が、自分という「個」が自分の行動をすべて自分の意志決定によって行っているという考えが誤りで、あらゆる思想や宗教や国の教育システムが自分を乗っ取っていて、自分の上に幾重にも重なった他者があり、緩やかに一つとなっている、という意見に反発を覚えることに共感した。と同時にそうなのかもしれないとも思わされる。

 リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」ぐらいから、所詮個体は、遺伝子や文化(ミーム)を次世代につなげる乗り物でしかないというイメージが広がっているが、では「個(おのれ)」というものに特別な意味など無いのかという問いが常に横たわっている。

 大局的には「個」に特別な意味など無いのかも知れない。が、主観的には自分という「個」は代替不能な唯一絶対的なものであり、本人にとっては極めて重要な意味があり、その人生は特別なものであると当方は信じている、そう思わすに人生を生きることなどできるだろうか。

 1回読んだだけでは内容を読み切れなかったが、たぶん、時間をおいて何度か読み返して、自分なりに理解を深めていく余地があるのだと思う。その楽しみのために解説のたぐいは読まないでおこうと思う。真に読み応えのある一冊であった。

 

○中島らも・小堀純「せんべろ探偵が行く」集英社文庫 中島らも隊長が率いる「せんべろ探偵団」が千円でべろべろに酔えるような安くて美味い飲み屋(立ち飲み屋が多い)を廻るレポート。

 みんな楽しく飲んでいて、オレよりはケン一向けの一冊だと思う。

 中島らもの追悼特集を買って読んだことがあるのだが、放送作家の鮫肌文殊氏だったかが、このせんべろ探偵の企画をえらい勢いで批判していた。「医者からも酒を控えるように言われているらもさんにべろべろになるまで酒飲ませやがって、何考えてるんや!」という怒りのこもったものであった。たしかにその通りだと思ったのだが、この本を読んで、あんなに飲まなかったら酔って階段から落ちて死なずに済んだのに、と「たら」を言ってもしょうがないという気もした。中島らもがエッセイで良く書いていたように、過去を振り返って「タラ、レバ」なんて考えても意味がない、過去においてそうしたことにはそれなりの理由や背景があってそうせざるを得なかったからそうなっているのであり、他の選択肢など選べなかったのだ、と考えると、中島らもは、飲まずにいられないから飲んでいたのだろう。それは必ずしも不幸な意味だけでなく、良い仲間との至福の一時を得るために、命を削ることになっても飲みたいということでもあったに違いない。生前話していたとおり酔って転んで死んだのは傑作「今夜すべてのバーで」を書き残し、酒に始まり各種薬物に酔いどれた作家にとって似合いの死に様だったのではないかとも思う。水面に映る月を捉えようとして溺れ死んだ李白の伝説にもどこか似ている気がする。

○大槻ケンヂ「暴いておやりよドルバッキー」角川文庫 オーケンの面白エッセイは最高や。今回は筋肉少女帯再結成の様子なども報告されていたが、いつものUFOやら格闘技やらUMAやらサブカル系のネタのオンパレードも楽しませてもらった。この人の書く馬鹿話はオチがマニアックで時に自虐的で独特の面白さがある。現役ロッカーでありながら、野外フェスの司会進行に呼ばれてしまうのもむべなるかな。執筆当時40歳になったようで記憶の減退と体力低下を嘆きつつも、バンドも物書きも順調で、のほほんと良い感じの不惑を迎えたようだ。もうすぐ不惑の当方もお手本としたいものだ。

○山岸涼子「アラベスク」1〜4白泉社文庫 なんと1971年連載開始、40年前の少女漫画である。読み始めてすぐに「絵が古ッ!」と「話、濃い!」と感じざるを得なかった。絵が古いのは40年前なので当然である、目には星が入っているし、背景とかもぎっちり書き込んであって読むのに時間が掛かるぐらいの情報圧とでもいうモノを感じる。現在の山岸先生の絵が硬質で細い線のスッキリとした今時風の絵柄で背景も割とスッキリとしているのと比べると隔世の感がある。話の濃さは、当時の流行のスポ根モノとかの影響であろうか、ソビエトのちょっと不器用なバレリーナを主人公としたストーリーなのだがライバルが次々と現れて、先生であるダンサーとの恋も絡んでこれでもかこれでもかと、エピソードがたたみかけられる。最初戸惑ったが、読み進むうちに調子が出てきて面白く読めた。40年前に今読んでまだ面白い漫画を書いていたということのすごさと共に、その30年後から書き始めた「舞姫テレプシコーラ」が、繊細な人物描写の妙や、ストーリーの起伏の付け方など、細かいところでもすごく進化していて、結果圧倒的に面白い漫画になっていることに、山岸涼子という漫画家が積んできた30年のキャリアの重みを感じた次第である。次に書く作品も必ず読まねばならない作家である。

 

<11.8.29>

○山岸涼子「舞姫テレプシコーラ」第2部1〜5巻MFコミックス えーーーっこれで終わりなの??というぐらいあっけなく終わってしまった。若手バレエダンサーの登竜門であるローザンヌ・コンクールを舞台に「妹ちゃん」の挑戦を中心に描かれているのだが、第一部のような心が悲鳴を上げるようなしんどいシーンはほとんど無く、最後は終わりよければすべて良しのハッピーエンドになったところで、これからの展開もいくらでもありそうな時点で終わってしまう。第一部に引き続き、ダンサー達が残酷な運命に巻き込まれていくのを密かに期待していたので正直拍子抜けした。もちろん面白くないわけではなく、今回も一気読みで三時間ほど夢中になって読んでいた。10点満点なら8点をあげてもいい。でも第一部は心の中で10点満点中10++点ぐらいの評価だったので、比較して「山岸先生、息切れちゃったのかな?」とか失礼な憶測をしてみたりもした。感じとしては打ち切りになった漫画の「オレたちの戦いはこれからだぜ」エンドに近いものがある。しかし、山岸先生の漫画をまだまだ面白くなりそうなのに打ち切りにする編集者などいないだろうからその線はない。うーんこれなら正直第一部だけで終わってしまった方がスッキリしたなあとややモヤモヤとした読後感に浸っていたのだが、とあることに気付いてひょっとしたらそうかも知れないと思いついた。以下考察してみるがネタバレするので読んでない人は以下は飛ばすように。

 気がつくと第二部では、みんな幸せになっている。もちろん、コンクールなので落選して涙をのむ登場人物も居るのだが、まだ若くそれでバレエ人生が終わってしまうような描写ではない。第一部で拒食症に苦しんだ少女はバレエをすっぱりやめて東大に合格し拒食症も治り違う道を歩み始めた。親にエロビデオに出演させられたり、貧乏で辛酸を舐めていた行方不明になった天才少女は、最後まで明確にはされなかったけど、どうも整形して中国系アメリカ人のお金持ちの養子になったらしく、ローザンヌでは圧倒的な技術と表現力で金賞をかっさらっていく。過去は知られたくないようで日本語も分からないふりをして妹ちゃんの呼びかけも無視するが、所々で昔お節介を焼いてくれた妹ちゃんに助け船を出したりとオイシイ役どころだ。悲惨な昔を知っている読者としては、これは絶対にあの少女が幸せをつかみ取り、自らの才能を思う存分に発揮しているのだと思わずにいられない。いまいち憎みきれない敵役の少女も、持ち前のテクニックを遺憾なく発揮して上位進出さえ期待される中、審査が技術主体から創造性重視に変わるという時代の流れを受けて落選してしまうが、最終的には意中のイケメンダンサーが留学中の英国名門からのオファーをゲット。死んだお姉ちゃんのことを好きだったイケメンダンサーは、妹ちゃんからも結構意識されていてモテモテ。イケメンダンサーのライバルもワイルドで荒削りだけど伸び盛りを迎える。妹ちゃんのことを好きなようで、優しい。妹ちゃんもまんざらでもない様子だがイケメンとどちらを取るのかというのははっきりせずに終わった。第一部で独身だった優しいコーチと厳しいコーチはどちらも結婚出産でおめでたい。そして、妹ちゃんは本番を風邪で失意の中途中棄権したにもかかわらず、一次のビデオと本番途中までに見せた独創的な振り付けの能力が審査員の目にとまり、「振り付け奨励賞」をゲット、ドイツ名門への奨学生での留学もゲットというどんでん返しの大ラッキーと、もういないお姉ちゃんの分まで幸運に恵まれる。

 こうやって、死んじゃったお姉ちゃんをはどうしようもないのは仕方ないとして、その他のみんなが幸せになっているのを読むと、山岸先生は第一部で終わらせるつもりだったけど、編集者に泣きつかれて第二部を書くことになり、それならば今度はつらい目にあったみんなが幸せになる話にしようと思って書いたお話なのではないかと想像したりする。どうだろうか?深読みしすぎだろうか。アンチハッピーエンドの好きなひねくれ者の当方にはちょっと物足りないと感じた第二部も、みんなが幸せになっていることに気付くと、それも悪くないなという気がする。

 

<11.8.26>

○山岸涼子「舞姫テレプシコーラ」第1部1〜10巻MFコミックス 山岸涼子は花の24年組と呼ばれる少女漫画界では一時代を築いた作家達の一人である。24年組には他に「地球へ」の竹宮恵子や「ポーの一族」の萩尾望都などがいる。当方が中学生の頃、姉上の本棚の萩尾望都を読んでいた記憶があるが、今や生きる伝説級の作家さんたちである。

 山岸涼子作品は、ひとの心の奥底の業のようなモノを描き出すものが多く、読んでいて引き込まれずには居られない。怖いホラーも書く。今回は初期の代表作の一つ「アラベスク」(残念ながら未読)以来30年ぶりだかでバレエを舞台した作品ということでダヴィンチ誌上で連載中も漫画読みの間ではかなり話題になっていた作品で、当方は読みたいけれど、毎月続きが待ちきれなくなるのが嫌で、連載終了後まとめ読みすることに決めていた。

 第一部全10巻が今日(もう昨日だ)届いたのだが、読み始めると引き込まれて徹夜しかねないので、土日に読むつもりだったが、「ちょっと先っちょだけ」と1巻をペラペラっとしたところ、一気に引き込まれて読み切った今2時前のこの時間に赤い目をしてパチパチと書いているところである。以下ネタバレも結構あるのでこれから読む予定のひとは読まないように。とりあえず言えることは、めちゃくちゃ面白いというか心に来る作品なのでぜひ10冊一気に買って明日が休みの日に読み始めろということです。

 物語は、母親がバレエ教室を営む2人姉妹を中心に進むのだが、ありきたりな主人公が友情、努力でプリマの座をつかみ取るという話には、まずこの人の書く話ではならないと思って読んでいたのだが、ものすごい才能に恵まれながらも、親父がくずでエロビデオに出演させられながらもバレエに情熱を燃やす少女や、太りやすい体質から重い拒食症になってしまう少女など残酷な心をえぐるエピソードが序盤からハードに展開する。その中で、姉妹のお姉さんの方は「二重関節」と呼ばれる膝の可動域が広いという恵まれた身体条件や勝ち気で競争心の強い性格で、母親の期待やライバルとの関係などのプレッシャーも力に代えて次代を担う逸材として注目されていく。一方、妹は逆に股関節のジョイントが深く身体的にはハンデを背負っており、ネガティブな感情に流されやすいメンタル的な弱さもある。しかし、感受性や創造性には目を見張るモノがあり、最初母親も気付かなかった才能が、コーチ陣の後押しもあり開花していく。後半は、妹がつまずきながらも才能を開花させていく様がストーリーのメインなのだが、正直当方はお姉ちゃんの方の残酷な運命に完全に心を奪われてしまっていた。発表会の場で、お姉ちゃんは左膝の靭帯を痛めてしまうのである。このときに有名な執刀医が不在で弟子が手術するのだが、弟子が手術後看護師との会話の中で「バレーじゃなくて踊る方のか」とかいっているのを読んで、「嫌なフラグが立ったな・・・」と当方は思ったのだが、手術自体は成功に終わり、お姉ちゃんリハビリも精力的にこなしレッスンにも戻ってきたのだが、膝に負担をかけたとたんに悪化再手術、2度目の手術は結局経過が悪く、絶望しかけるのだが、韓国で生体間移植を行う道が開け、手術は成功といわれ3度目の正直に向け、リハビリに精を出す。が、その間にも新たなライバルの出現や、妹の成長、自身の身長のストップ、体重の増加、心ない同級生の陰湿な攻撃などに焦りを募らせる。膝さえ直れば、その才能を思うまま発揮し踊れるのに、踊れないもどかしさ。上手く踊れないからレッスンがいやだと弱音をはく妹に「どんなに恥をかいても、うまくいかなくても私なら踊りたい」ときつく当たることも。読んでいて、お姉ちゃんにもう一度復活してもらいたいと心底願いながらも、たぶんお姉ちゃんは残酷な目に遭うんだろうなと覚悟はしていた。リハビリも順調にいっているように見えていたのだが、実はお姉ちゃんの膝は普通より曲がるということをリハビリ担当の医者は知らなかったので、充分膝は伸びていると、リハビリは順調と、みていたのだが、コーチは以前はもっと反るくらいに膝が伸びていたことに気付く。しかしそこまで伸ばすと炎症が起きる。医者に正常な右膝を「ここまで曲がるんです」と見せると、医者が「せめて手術後すぐに気付いていれば・・・」の台詞。関節内に軟骨や骨のくずが残っている状態で、改めて手術するにはすでに3度もメスを入れていることもあり、1年以上待たなければならないという。ここでお姉ちゃんの心は思いっ切り折れた。身体バランスの変わっていく成長期に4年もブランクがあくことになる。食事もまともに取らず、成績もがた落ち、妹にもきつく当たり自己嫌悪。踊れない自分に価値などあるのかという存在意義の崩壊を迎えボロボロ。ああ人間の心が折れるというのはこういうことなんだなと思い知らされる。40になるオッサンの涙腺もチョチョぎれるつらく悲しいおはなし。しかし、危篤で意識のないおばあさんが手を握ってくれたことで「もう一度バレエ踊りたい」と再起を誓う。頑張れ、負けるな、お姉ちゃんをこれ以上酷い目に遭わせないで、とオッサン祈ったね。膝が元通りにならなくても、トップレベルに追いつけなくなってもそれでもバレエを踊り続けるというオチで良いじゃないか、山岸先生そうしてよと思ったね。でもお姉ちゃん自殺しちゃう・・・。泣けたねオッサン。寝てる同居人起こさないように嗚咽をかみ殺しながらオッサン少女漫画で男泣き。あんまりじゃないか。家族はみんな自分が苦しみに気付いてあげられなかったと深く悲しみ、母親は自分が追い込んでしまったと自責の念にさいなまれる。コーチの一人が言うように「バレエだけが人生じゃないのに」というのはその通りだと思う、思うんだけど、でもなんというか「バレエだけが人生」と思えるような、そういう執念というか強い思いというのは安易に否定できないような気がする。そういうすべてをかけた情熱でなければ登れない高いところがあるように思う。お姉ちゃんの気高い魂が安らかに眠られんことを祈る。

 話は、姉の死に打ちのめされながらも、何かをつかもうともがいた妹が、発表会で振り付け師としての才能を開花させて第1部の終了となった。早速アマゾンで第2部をゲットせねばなるまい。あとアラベスクも読もうとおもう。

 

<11.8.13>

○梨木香歩「りかさん」新潮文庫 りかちゃん人形をほしがった少女に祖母が与えたのは「りかさん」と名付けられた物言う市松人形で、お友達のところの人形や家庭事情も絡んだ事件に、りかさんとともに悩み考えながら奔走するというようなお話。人形に込められた思いや、背景を知り少女が成長する姿を書いている。おばあさんがなかなか渋い役どころで鋭いところをつく台詞に感心させられる。男社会のパワーゲーム的なところを否定しながらも、その中でしか生きていけない男というものを受け入れている度量の深さが印象深い。しゃべる人形たちというのは荒唐無稽といってしまえばそれまでだが、モノにも魂のようなモノが宿ると考える日本人のメンタリティーにはマッチする設定だと思う。帽子やコート、釣り具など、なじみのモノに離れがたい執着を覚えるのは当方だけというわけではないだろう。

 

○梨木香歩「春になったら苺を摘みに」新潮文庫 筆者が英国在住字にお世話になった下宿屋?の女主人との交流を中心に、「異なる世界」から来た人とどうつきあうかという、グローバリゼーションが抱える、きわめてややこしくかつ根源的な問題について、考え続けるエッセイと当方は感じた。

 女主人は筆者のような東洋人から、アフリカの王族、ムスリム、犯罪者まで無条件にといってよい許容力で受け入れる。全く異なる文化や社会通念の中で生きる人とつきあうには、違うことをそのまま受け入れるとてつもない広い度量が必要らしいと感じさせられる。同じ人間でも必ずしも理解ができる価値観の中にいるとは限らないようだ。筆者の文章にはいつも深い思索の気配が漂うのだが、この下宿での経験がそのベースの一部になっているのかなと感じた。

 世界中で、移民が引き起こす問題と極右の台頭がリンクしながら起こっているような状況下、日本も超少子化高齢化社会を迎えるに当たり、今後も移民政策をとらないとしても、現在以上に就労ビザ(日本はいわゆる就労ビザは発給してなくて研修生扱い)や不法就労で「異世界」からの労働者がやってくる。というか、景気が悪いので減ってはいるらしいが既にたくさんやってきている。そうなれば当然、都合のよい労働力となる人々だけではなく、犯罪者やトラブルもやってくる。それらとどうつきあっていけばいいのか。ヨーロッパの先例では、移民の増加は国内に異文化の集団を作り出し、元々いた住民との軋轢を生み、仕事を奪われたと感じる若者たちは民族主義的な行動に走るという問題が起こっているように見える。オスロの惨事やイギリスの暴動、ドイツでのネオナチの台頭。日本はこれらを他山の石として、どのように対応すべきなのか。答えはまるで見当がつかない。日本では企業が工場などを労働力の安い海外に移転したりしているので、産業が空洞化してきていて国内では就職先が無く、労働力は余っているという見方もあるが、それでも飲食店や工場で働く安価な労働力としての外国人労働者は現実に少なくない。就職超氷河期といわれるような状況でも、既にきつくて安い仕事は日本の労働力では賄えていない事実がある。

 いまや都会の飲食店などは低賃金の外国人労働者無しでは回らないのは明白だが、安くても働く外国人労働者を締め出せば、賃金を上げざるを得ず、日本の働いていない潜在労働力が生かされるということがありうるのだろうか。ネットで調べた範囲では、専門家の見解ではそうなならないとされているように思うが、正直本当はどうなのか当方にはよくわからない。

 いずれにせよ近い将来の日本のような超少子化高齢化社会ではどうやっても、労働力の不足は免れないように思う。そうなった場合に安い労働力はほしいが、犯罪者はいらないというのは虫がよすぎるだろう。労働力を受け入れると同時に、それに伴うトラブルや犯罪の増加に何らかの対策をうつ必要があるのと、ある程度は許容する度量の広さが求められるのではなかろうか。個人として実際に犯罪の被害に遭えば受け入れることなどとうていできないかもしれないが、社会としてはそれも覚悟して、犯罪対応のためのコストを払いつつある程度は仕方ないものとして現実を認めざるを得なくなるのではないだろうか。いやでもこの問題は避けて通れそうにない。

 「異なる世界」との接触で、今の時代もっとも大きな問題になっているのは、9.11に象徴される、資本主義社会?とイスラム社会との対立や衝突だろう。筆者も9.11については言及しているが、当たり前といえば当たり前だが、明確な答えを持っているわけではないようだ。ただ紹介されていた、9.11の慰霊の場でジョンレノンの「イマジン」を歌ったという歌手の話は印象的だった。愛する者をテロによって殺され、復讐の怒りに燃える人々の前で「人間は皆兄弟だと思ってごらん。」と許すことを諭すことは、一つの方向性というか解答を示しているような気がした。アメリカはその後、憎しみに突き動かされ「テロとの戦い」に突入していき、多くの仇を討ち取ったとは思うが、それが新たな憎しみを生み、結局、終わることのない憎しみと復讐の連鎖にからめとられてしまっているように思う。

 憎しみと復讐の連鎖から抜け出すには、仇を許すというのは一つの美しい解決方法だと思う。しかし、歴史的には当方が知りうる限りもう一つある方の解決策がほとんどの場合選択されてきたように思う。というか、仇を許すような優しい社会は、争うことを宿命づけられているような「人間」という生き物が作る社会間では、貪欲で攻撃的な社会につけ込まれ、骨までしゃぶられて存在し得なかったのだろう。

 ちなみに、憎しみと復讐の連鎖から抜け出す美しくも優しくもないが現実的な方法は、相手を徹底的に打ちのめしてしまい、報復ができなくなるまで弱体化させる、あるいは取り込んでしまうという方法であろう。

 「和人」に壊滅的に文化も社会も壊されて和人社会に取り込まれてしまったアイヌの人たちは、現状ではなんとか自身の文化を保存するのが精一杯で「和人」への復讐など考えてもいないだろう。  滅んでしまって恨みを語る子孫さえいない民族なら、滅ぼした民族に危害を加えることはあり得ない。

 アメリカはイスラム社会を自分たちの生きる枠組みである「グローバルスタンダード」な資本主義的世界に取り込んでしまうつもりでいるのだろうか。

 日本は第2次世界大戦でボロ負けを食らい、文化的な部分や社会制度的な部分でアメリカを中心とする冷戦時に西側と呼ばれたような側に取り込まれたといってよいと当方は感じている。それは必ずしも悪い話だったとは思っていない。

 それと同じように、軍事力と経済でねじ伏せて砂漠の人々をむりやり「グローバルスタンダード」な世界に引きずりこむことが果たしてできるのか、できたとしてそれが正しいことなのか。独裁政権や部族支配的な社会が民主化されれば皆幸せなのか。

 「グローバルスタンダード」な世界に生きる当方のような立場からみたなら、民主化されれば結果的には幸せになれる人が増えるのではないかという気もする。でもその立場は絶対的なものなのか。砂漠のムスリムには彼らなりの立場があって、それはそれで尊重すべきものなのではないだろうかという思いはぬぐいきれない。  彼らに「民主化しろ」とかいうのは、例えるなら日本に「鯨食うな」というのと同様の大きなお世話ではないかという気がしてならない。

 彼らだって、今時、インターネットを始めとした情報化の波の中にあり、自分たちの世界と違う価値観の世界があることは十分知ることはできるし、民主化が必要なら彼ら自身がそれを選べるだけの素地はあるのだと思う。それでも選ばないという価値観があったとしてそれが間違いであると当事者でもない人間がなぜいえるのか。当方にはよくわからない。汚職まみれの愚衆政治に陥る民主主義国家もあれば、君主が領民に信頼される統治を行う専制君主国や皆の意見が反映される小規模コミューンのような幸せな原始共産主義的社会など民主主義国家以外の正解もありえるのではないか。

 グダグダと書いてきたけれども、当方は現時点では、アメリカがイスラム社会に民主化を強要したりするのは大きなお世話で放っておくべきだったのだと思う。  でももう遅いのか。アメリカは大量破壊兵器の製造の事実もなかったのにイラクに侵攻し、またえらい恨みを買うようなことをしてしまっている。日本も明確にそのアメリカ側の国だ。イスラエルの問題などももう双方引くに引けない状況だ。

 それでも、なんとかお互いにしのび難きをしのび耐え難きを耐えてでも、これ以上血を見ないような関係性をきずけないものかと願わすにいられない。お互いを理解することなど不可能なのかもしれない。それでも、最大限許して妥協し、交渉し、策を練り、出口のない問題は先送りにし、嘘や脅しや使える手段をすべて使ってでも、憎しみが風化するまでできるだけ長く血を見ることを避けていくことはできないものだろうか。どんなに激しい憎しみも時間の経過とともに色あせていく。日本人もベトナム人も多くは既にアメリカに対して血を流さなければならないような憎しみは抱いていないように思う。

 オバマ大統領もイスラムの指導者たちも血を見ることを避ける方向でどうか一つ努力してくれないものだろうか。とりあえずイラク侵攻で大チョンボをやらかした米国の大統領としてオバマ大統領から謝罪とか補償とかで歩み寄るというアクションを起こしてくれないものかと願う。

 憎しみと復讐の連鎖から逃げ出すために、どちらかが他方をねじ伏せてしまうしかないというのは、人間が結局、平和的でも友好的でもない生き物であることの証明であり、何万年の歴史の中で繰り返されてきた争いの歴史を、21世紀という輝かしい未来の世紀として期待されていた時代になっても繰り返すという愚行に他ならず残念でならない。

 人間を人間の文化・社会を進化させてきた根源が「競争」であるというのは否めないことだと思う。であるとしても人間は「争い」を避けることができないという考えは、人間の知恵や精神が高みに届くことを否定し馬鹿にする考え方だと当方は思う。  人間はネアンデルタール人を滅ぼした(混血し吸収したという説もあり)ところから始まり、先史時代から今日まで氏族的集団間、異文化間、国家間あらゆる集団間で争い続けてきた。争って勝ち残ったものだけが今日生きている人間であると考えると、この争うことしか知らないかのような人間が「争い」を避けることができる理屈がないようにさえ思える。

 それでも、長い歴史の中には、停戦協定やら和平交渉やらで争いを避けた場面もあるし、人間の中にも、ガンジーやらジョンレノンやらのような平和主義者も存在している。争いが絶えたためしはないが、平和を望む人々も少なからず存在し続けたと考える。人間には平和を求める力もあるはずだ。  人間はきっと争いを避け平和な世界を築くところまで到達できると信じたい。といったら夢想家の戯言に聞こえるだろうか。

 8月ということで、本の感想というより平和について、とりとめもなく考えてしまった。たまにはそういうことも考えておいて罰は当たらないだろう。

 (話は少しずれるが、日本の自衛隊も攻めていきはしないけど、攻められたら黙っちゃおかないという、争いを避けるためには非常に良くできた組織だと思う。日本の再軍事化を避けるためにアメリカに押しつけられたシステムとはいえ最上の選択だったと感じる。災害時の対応にも頭が下がる。勝手に解釈を拡大したりせずに今の形を維持してほしいところだ。)

 

<11.7.24>

○梨木香歩「村田エフェンディ滞土録」角川文庫 「家守綺譚」の次の梨木本をとたまたま手にした本書は、家守綺譚の主人公の友人である村田という男が、トルコに招聘されて遺跡の発掘など考古学の勉強に行く話でつながりのある物語だった。意味のある偶然か。ヨーロッパとアジアが出会うトルコで、英国婦人が切り盛りする下宿で、ムスリムの下男やギリシャ人の学者などと交流し、さらには時間を超えて現れる、遺跡や神とも巡り会う。日本からの呼び戻しがあり、後ろ髪を引かれながらも帰国した後、時代は世界を巻き込む大戦に突入していく。トルコで巡り会った人々はそれぞれ容赦ない運命に流されていく。文明開化のころの話を書いているのだが、その時代の雰囲気がとてもよく感じられる、にもかかわらず古い文章を読んだ時のような読みにくさは全くなく読みやすい。この作者の特徴の一つは「読みやすい」ということにあるのかなと感じている。読みやすいんだけど薄っぺらくはなく読み応えもある文章。やはり梨木香歩は面白い。まだ何冊か買ってあるので楽しみだ。

 

○高野秀行「メモリークエスト」幻冬舎文庫 他人の思い出に残る人を世界の果てまで探しに行く。という読者参加型の探索行を企画し、Web上で募集した面白いエピソード付きの人を探しに行くのだが、何というかこの人のものの考え方は常人とはまったく違うということを思い知らされる。まず何が驚きかというと、1つのクエストを達成したら、普通一旦日本に戻ってきて、新たな情報を整理したうえでつぎのクエストに向かうものだと思うのだが、高野氏の場合は当然のごとく一度日本を発ったなら、全てのクエストを終えるまで帰ってこない。本人の様子を見ると、早く次のクエストに挑戦したくて仕方なく、日本に帰ることなどつゆほども考えていないように読める。躁病かと疑いたくなるテンションの高さ。しかも、読者参加型企画のはずが、途中で気になって止まらなくなり自分の想い出の中の人を捜しに治安のよろしくない南アまで行ってしまう。さらに、スゴイのはそれぞれ10年以上も昔の頼りない想い出をヒントに4勝1敗という高確率で目的の人と出会ってしまうという探索能力の高さ。南ア編と旧ユーゴ編はかなり難易度が高いと思うのだが、奇妙な偶然から求める人を引き当ててしまう。いやはやこのくらいの探索能力がなければUMAなど探しに行く資格はないということか。高野秀行はあいかわらず面白い。

 

○竹内久美子「美人の体」文春文庫 竹内久美子氏の連載は終了したと思っていたが、新装開店で「動物行動学バラエティー!」というのがスタートしたようだ。例によって、動物の行動や人間の行動を生物学的に面白く紹介してくれている。竹内久美子氏の著作については、けっこう批判もあると聞いていたので、どんな批判があるのか軽くネットで見つかる範囲で見たところ、素人の批判は、まるで生物学がわかっていない「アホか!」というのが多かった。遺伝子がどのようにしてそのコピーを残してきたのかという「遺伝子の戦略」と人間が文化や教育のもとどういう判断をするかという「人間の判断」を混同してしまっている例もみられた。そういうレベルの人間は竹内久美子をもっと読んだ方がよいように思う。専門家の批判については、たしかにごもっともな部分もあるんだけれど、エンタメな文章に対してあんまり重箱の隅つつような堅苦しいことをいうと、堅苦しくてつまんない文章になってしまうので、それではこの人の書く文章の存在意義が無くなってしまうと思う。ある程度、正確な引用やわかりやすい解説を載せつつも、暴走気味に意表を突くような竹内理論が展開していかないと読んでてつまらないと思うのだがどうだろうか。一般の人に「遺伝」の話をわかりやすく説明したという功績において、この人に勝る人はいないと思うのだが。

 

○香山リカ「世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本」幻冬舎新書 題名どおりの内容というよりは筆者が最近の時事ネタで「世の中の意見が<私>と違う」と感じた話題について書いている。まあ、医療制度崩壊などについて現場にいないとわからない視点で語られており面白く読めた。世の中の意見が<私>と違うときの対策的なものを期待していたが、「少数派になるのを恐れない」「わからないときには判断を保留する」「変節を恐れない」と簡単に述べているにとどまった。まあその通りだとは思うけどだからといってそれで何かが解決していくわけでもないような気はする。

 

<11.7.10>

○大槻ケンヂ「縫製人間ヌイグルマー」角川文庫 読みかけて、いまいち乗り切れずしばらく放置してあったのを読み切った。大槻ケンヂもすでに作家としては新人ではなく、表現者として主にサブカル方面の少年少女に結構な影響を与えるポジションにいると思うのだが、本人もその辺意識しているのか、本作には若い読者に向けて「人と違っても良い、おしきせでない自分だけの幸福を求めよ、本も読め。」というメッセージが強く込められているように感じた。その上で、UFOネタとか陰謀ネタ、格闘技ネタなど得意のネタをサービス精神たっぷりに盛り込んだ作品になっている。若干、メッセージ性のあたりが説教臭く感じるところがあり初め読んだときは乗り切れなかったが、しばらく寝かしておいたら不思議とその辺は気にならず楽しんで読めた。最近はバンド「筋肉少女帯」も復活して音楽活動に忙しいようで、小説はこれ以降は書いておらず作家大槻ケンヂのファンとしてはちょっと寂しいところだが、流行廃りの激しい音楽業界そのうち暇になることもあるだろう(ない方が本人は幸せだろうが)、また面白い小説を書いてくれることを気長に待ちたい。本作や「グミチョコパイン」、「ロッキンホースバレリーナ」のような読者を楽しませてくれるサービス精神旺盛な作品ももちろん好きだが、初期の「新興宗教オモイデ教」「くるぐる使い」のようなちょっとおどろおどろしい、心の闇をさらけ出したような作品が実はすごく好きだったりする。

○鴨志田穣「日本はじっこ自滅旅」講談社文庫 アル中のダメなオッサンがヨメはん(漫画家の西原理恵子)に家をおんだされて、半島の端っこだの離島だのを当てもなくさすらう旅。ずるずると流されていくダメさ加減に共感を覚えずにいられない。子供の頃は大人になったら自分はきっと立派な人間になっていると思っていたが、現実の自分のダメさ加減にうんざりする。大人になるとはそういうことかも知れない。

○梨木香歩「家守綺譚」新潮文庫 まいった面白い。内容は、文明開化の頃の貧乏作家が、琵琶湖の湖畔にある亡くなった親友の実家の管理をまかされ、怪異達の調停役として顔の利く愛犬ゴロー、あの世から船を漕いでやってくる友人や、カッパ、木の精たちなど不思議な怪異や出来事に出会う話。この人の作品を読むのはエッセイ含めこれで3作めで、エッセイはまあまあという感じだったけど、「西の魔女が死んだ」の切れ味にはオオッと思わされたし、今回の作品では、短いエピソードが集められているのだが、全部読み切ってしまうのが惜しいと感じるほど一つ一つのエピソードが面白かった。何が面白いというのは説明が難しいのだが、まず、文章がきれいで読みやすい。もともとイギリスに留学して児童文学の大家に師事したということで「西の魔女が死んだ」は児童文学に分類されるそうだが、たしかに難しい文章ではない、でも内容が必ずしも子供向けかというとそんな風には感じなかった。両作品とも読みやすく難しくない文章なのに語られている内容はむしろ豊かで、行間から感じられる背景となった深い知識や思考の積み重ねは作者がただ者ではないことを示しているように思う。特に今作品の方には、生き物、中でも植物がたくさん出てくるのだが、たぶん半端でない知識に裏打ちされているのだと感じさせられた。こういうオタク的な部分のある作家とは波長が合うのだろうか。ひさしぶりに作者の全作品を読みたいと思える作家に巡り会った。アマゾンで5作品ほどポチッとしたのでしばらく梨木香歩漬けの日々になりそうだ。こういう出会いがあるから読書はやめられない。

 

<11.6.10>

 昨日発売のモーニング紙上において講談社漫画賞の発表があった。一般部門の受賞作はずいぶん前(08.10.5)に当方が「講談社漫画賞は近いうちに取るでしょう」と書いていた小山宙哉の「宇宙兄弟」だった。これまでも何度も候補に挙がっては選外で、「この漫画がすごい」でも2位で、これはビックタイトルは獲れないのかと一ファンとしてやきもきしていたが、今年すでに小学館漫画賞を取っており、講談社漫画賞とのダブル受賞となった。宇宙飛行士を目指す主人公を中心に繰り広げられるストーリーなのだが、様々な苦悩やトラブルに真摯に時にユーモアを交えて立ち向かっていく人々の夢や思いや喜びが読むものの胸を突かずにいられない。当方の「漫画読み」としての目は節穴ではなかったとホッとしている。世界の片隅から「受賞おめでとう」と祝福したい。

 

<11.6.5>

○谷崎潤一郎「痴人の愛」新潮文庫 たまにはちょっと古めの文学でも読んでみるかと、古本屋でゲット。15の頃から目を付けて育て上げた「ナオミ」に翻弄される主人公が哀れで、あるいは滑稽でサクサクと読めたが、期待したほど官能的でもないし今一ピンとこなかった。「ナオミ」は日本文学を代表する妖婦だそうだが、こんなわがまま勝手な女なぞ相手にしなければいいのにとしか思えない。男と女の関係とか恋愛物とかは当方には向かないことを再認識した。同じ谷崎潤一郎の「春琴抄」の映画(山口百恵、三浦友和主演)は子供の頃見て今でも記憶に残っているほどだったので期待したのだが。

○町田康「テースト・オブ・苦虫5 おそれずにたちむかえ」中公文庫 町田節炸裂のエッセイ第5弾。ふざけているようで真面目なようでもあり、真実である一方嘘っぱちの、なんだか独特の書きっぷりにシビレる1冊。

○吉村昭「羆嵐」新潮文庫 ヒグマおっかねー!北海道開拓時代に、山間部の開拓村を襲った冬ごもりし損ねた巨大なヒグマ。火も恐れず、圧倒的なパワーを持つヒグマの前に、貧乏で鉄砲などもろくにない村人達は「人間は餌でしかないのか」と恐れおののく。6人が殺され、下流の村から鉄砲を持った援軍が来ても熊の圧倒的な恐怖の重圧にびびってしまい役に立たない。老練の猟師が最後仕留めてやれやれといったところ。北海道開拓を題材とした小説は他にもいくつか読んだが、最初の開拓民の苦労は今の日本人ではちょっと想像がつかない世界だなと思わされる。ともあれ北海道に釣りに行くときはクマ対策しっかりしていきましょう。

○森田まさのり「ルーキーズ1〜12」集英社ジャンプリミックス 少年ジャンプの読者だった頃はこの作者の「ろくでなしブルース」を楽しみにしていた。本作はドラマ化、映画化もされており、読む前から「熱血教師がヤンキー共を引き連れて甲子園を目指す」というコテコテの王道的ストーリーだとはしっていた。ストーリーの流れもだいたい予想できるというものである。それでも読んで面白いと思わせられた。個性豊かな登場人物がそれぞれの持ち味を出して活躍し、ライバルとの対決や怪我やトラブルがストーリーを盛り上げる。直球勝負のくさい台詞もなかなかにグッときた。少年マンガはかくあるべきという感じ。

○高橋葉介「学校怪談1〜8」秋田文庫 連載中(前世紀末ぐらい)に少年チャンピオンで読んでいたけどほとんど忘れているので文庫版でゲットして再読。前半は主人公の山岸涼一クンが怪談に巻き込まれる短編形式。後半は九段九鬼子先生がもう一人の主人公として出てきてストーリー性のある展開に。毛筆で書いているっぽいこの人の書くマンガは独特のオドロオドロしささがあっていい。怖い話もあるのだが、どちらかというとコミカルな落ちがある話が多い。しんみりとさせたりほろっとくる話もある。楽しめました。山岸涼一クンの名前は「私の人形はよい人形」など恐ろしいホラーも書く漫画家の山岸涼子先生へのオマージュか?

○高橋葉介「黒衣1〜4」少年チャンピオンコミックス 同作者の作品でまだ読んだことがないシリーズのつもりで買って読んだところ、断片的にエピソードやシーンを覚えており既読であったことが判明。いつどこで読んだのか全く覚えがない。ほとんど内容忘れていたのでまあ良かったが、年はとりたくないものだなあと思った。「黒衣」と呼ばれる霊能力者が憑きもの落としや怪物と戦う話。ラスボスが禍々しくて良かった。

 

<11.5.20>

○いしいしんじ「みずうみ」河出文庫 なんというかこの読後感をどう説明して良いのか、文章が心のまだ触れられたことのない部分に接触して生まれてきた感動といったところだろうか。いしいしんじは、中島らもとオランダに大麻吸いに行ったり、町田康とぶらぶら対談したりしてるときなどは、はちゃめちゃなオッサンで初期の作品にも、マグロとサケの築地市場での恋なんていうぶっ飛んだモノがあるんだけれど、「ブランコ乗り」から「トリツカレ男」、「麦踏みクーツェ」、「プラネタリウムの双子」あたりは、ほんとに良くできた、ちょっとヨーロッパ辺りの匂いがする「ものがたり」で、彼は小説家というよりは「ものがたり作家」という印象が当方の中では強くある。これらの作品ではものがたりは明確な「おしまい」をもっており、読んでいて素直に心に落ちる心地よさがあった。おそらく彼は同様の良くできた安心して読める作品を書き続けることもできたのだと思う。しかし、彼はそうはしなかった。「ポーの話」の永遠を感じさせる終わり方でも新しいものがたりの語り方を感じさせられたが、今作ではそれがよりいっそうはっきりと示されたと思う。有り体にいって「落ち」らしいものがない今作は、従来の「ものがたり」のファンにとっては何が何だか不安で受け入れにくい作品かもしれない。しかし当方にはググッときた。3部構成になっていて、1部では水があふれる湖とそれを取り巻く村人の世界の物語が、2部では、水をあふれさせるタクシー運転手と帳の物語が、3部では、筆者とその妻、NYの友人夫婦の物語が展開するのだが、それぞれの物語に事件はあるけど明確な「落ち」はない、ただ、あふれ出る水というキーワードを中心に、ものがたりがそれぞれつながってグルグルと廻っていくような感覚を覚える不思議な読み心地だった。この年になって「こんな小説読んだことない」という新たな快楽にわななくことができたのは得難い読書経験だったと思う。また、いしいしんじの作品を心待ちにしている者としては、今作のような作家の転換点になるかもしれないような作品に出会えたことは暁光だと思うし次の作品がどのように書かれるのかも期待して待ちたい。

 

<11.5.14>

○笙野頼子「レストレスドリーム」河出文庫 なんじゃこりゃ?日本の文学の再先鋭はこんなことになっとるのか、と衝撃を持って読みました。内容は悪夢の世界を延々と筆者の分身が行くというもので、その悪夢が、言葉でできた階段だの、言葉を操って倒していくゾンビだのが出てくる一種ゲームのような仮想現実っぽい世界。ほとんど意味不明な中、女性論的な言葉の連なりが断片的に出てきて何か暗喩しているのかもしれないが当方にはさっぱり分からなかった。さっぱり分からないなりに読み通してしまったが、当方にはちと難しすぎたかも。たまにはこういう前衛的な小説を読んで頭の中をかき回すのも良いかなという感じ。

○橋本紡「猫泥棒と木曜日のキッチン」新潮文庫 同郷の作家の中高生向けじゃなく一般向けの小説。高校生の恋と、親の家出と、捨てられた猫とマルセイユルーレットの話。サクサクと心地よく読めて、読後感もさわやか。楽しめました。

○時雨沢恵一「キノの旅」2〜13電撃文庫 アニメで最初の方を視聴、その後原作ライトノベルを読むパターン。基本的に短編で、旅人であるキノが、相棒のしゃべれるバイク(作中では「モトラド」)のエルメスにまたがり荒野を抜けてあちこちにある国を訪ねて、見物したり騒動に巻き込まれたりする話。それぞれの話は非常に風刺が効いていて、物語としてはわかりやすく端的なのだが、それらが風刺している内容は結構現実世界でもあり得る話だったりして、なかなかに考えさせられる。また主人公のキノは一見少年に見える少女なのだが、凄腕の拳銃(作中では「パースエイダー」)使いで、人を撃ち殺す描写は結構えげつない。生きていくために、あるいは復讐の連鎖に飲み込まれて、人は人を殺さざるを得ないこと、ひいては、戦乱が途絶えたことはないという事実を突きつけられているように感じるのは当方だけか。若者だけに読ませておくのはもったいない面白くてちょっと考えさせられる読み物。

○荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険−Part4ダイヤモンドは砕けない−」18〜29「Part5黄金の風」30〜39「Part6ストーンオーシャン」40〜50集英社文庫  「ジョジョ」は、少年ジャンプで長期連載していた人気マンガ(今も掲載誌は違うが連載中)。当方もパート3の空条承太郎とDIOとの決着とそのあとのパート4の途中くらいまでは少年ジャンプを買っていたので読んでいたが、その後も物語は脈々と続いているようなので、ここらで一発大人買いでまとめ読みすることにした。少年ジャンプの悪いパターンとして、人気マンガが終了させてもらえずに、敵キャラがインフレを起こして訳の分からない状態になってしまうというのがあるのだが、ジョジョはこの点、父から子へと主人公が変わって舞台が変わったりすることによって心機一転、一から始まるので敵のインフレが防げている。また、パート3からは、登場人物達が戦う際に、「スタンド」と呼ばれる背後霊のような式神のような能力が発現することになり、このスタンドの設定は、「遠く離れた場所は攻撃できないが接近戦でのパワーとスピードが持ち味」、逆に「遠隔操作ができるが、正確性、操作性に劣る」などなど、それぞれの特徴があり、その特殊能力を上手く相手の裏をかいて使うことで、絶対的な強者というのがあまりなく、ハラハラするような頭脳戦で大逆転というような展開が多く、まさにこのマンガの読み応えのある部分となっている。パート4はパート2の主人公ジョセフジョースターの隠し子東方仗助の住む杜王町を舞台として、町に潜むスタンド使いの連続殺人犯を倒す話を軸に展開。印象的なシーンは、仗助のスタンド「クレイジーダイヤモンド」は破壊したモノを直すことができるのだが、おじいさんを敵に殺され、クレイジーダイヤモンドで傷を治したが間に合わなかったときの、空条承太郎(パート3の主人公)の台詞「人間はなにかを破壊して生きているといってもいい生物だ。その中でおまえの能力はこの世のどんなことよりもやさしい。だが・・生命が終わったものは戻らない。」が渋い。パート5はパート3の敵ディオの血をひくらしいジョルノ・ジョバーナが主人公で、イタリアを舞台にギャングスターに上り詰める話。グイード・ミスタのスタンド「セックス・ピストルズ」は弾丸に乗って飛んでいく小人のようなスタンドで6人で弾の方向を変えたり、見張りをしたりとトリッキーに活躍して印象的。主人公のスタンド「ゴールドエクスペリエンス」は、無生物を生物に変える能力で、今一破壊力に欠けそうな印象だが、木を生長させて足場を作ったり、負傷した味方の臓器や皮膚を作って補ったりと、そういう使い方もありかと感心。パート6では空条承太郎(パート3の主人公)の娘、空条ジョリーン(徐倫)が主人公。いきなり罠にはめられて、監獄にぶち込まれる。スタンド能力を得たおかげで「心」も得ることができた元プランクトンの「フーファイターズ」の死とか、盟友エルメェスの復讐のエピソードは面白かったが、ラスボスの世界を幸福に導くための思想がいまいち理解不能で、最後の落ちがタイムパラドックスモノでエンポリオ少年を除く主人公達がいない世界になってしまっていたのは、何となくしっくりこなかった。やや複雑になりすぎたかんじか。とはいえ独特の絵の雰囲気と「ゴゴゴゴゴゴ」という登場時の擬音や「オラオラオラオラオラ!」といった叫びが飛び交う世界観はこの作者ならではの味わいで、30冊ほどをGW中にみっちり楽しむことができた。

○影山理一「奇異太郎少年の妖怪絵日記」webマンガ 妖怪マンガと言えば古くからいろいろ書かれていて一ジャンルを形成しているといってもよいかとおもうのですが、当方の好きなモノだけあげても、ゲゲゲの鬼太郎から、ドロロン閻魔くん、怪物くん、学校怪談(高橋葉介の)、地獄教師ぬーべー、栞と紙魚子シリーズ、百鬼夜行抄、怪物王女などなどたくさんあります。その系譜に新たなマンガが追加されましたという感じ。今時っぽくwebマンガです。題名から分かるようにゲゲゲの鬼太郎のパロディーというかオマージュなので奇異太郎君は妖怪アンテナが立ったりしていますが、そこは何というか今時風で、かわいらしい座敷童のスズちゃんとか出てきたりするのですが、きっちりメジャーどころの妖怪も出てきて、それを今時風のライトなギャグでするりとかわしながら話が進んでいく感じでなかなかに良くできてます。書籍化もするとのこと。オヌヌメ。 

 

 

<11.3.14>

○橋本紡「半分の月がのぼる空」1〜8電撃文庫 肝炎で入院した高校生が、心臓に重い病気を抱えてずっと病院に入院している少女に恋をして、2人の恋模様を中心に医者や友達なんかのエピソードなんかも絡めて話が進んでいく。

 正直、当方は恋愛モノは小説、漫画、映画限らず苦手である。何というか背中から脇のあたりが痒くなるようなコッパズカシイような感じに耐えられないのである。

 この作品も恋愛モノかつ、高校生ぐらいを対象としたライトノベルなので40がらみのオッサンが読むのはちょっときついモノがあった。

 しかしながら全体としてこの物語が楽しく読めてしまったのは、なんとこの物語の舞台は我が故郷であり、主人公が通う高校も我が母校だったりするからである。作者とは同郷である。

 河を運搬路として使っていた名残のある古い町屋やメジャー所マイナー所の神社もでてくるし、名物の「七越ぱんじゅう(店は潰れた)」とか「朔日餅」とかが出てくるたびに、懐かしさに心が沸き立つのを押さえられない。なかでも「まんぷく食堂」の「からあげ丼」は、久しく食べていないので食いたくてたまらなくなった。高校時代よく大盛りを頼んで食べていたものである。作中出てこなかったが喫茶モリのナポリタン「モリスパ」とか、「クック」のドライカレーとかも懐かしく思い出された。あの町で高校生をやっていた体育会系の野郎共ならこれらのメニューは定番だっただろう。あとバーさんがやってるお好み焼き屋も懐かしかった。

 大学時代は割とまじめに勉強していた当方にとって、高校時代はなんとなくモラトリアルな雰囲気で、当時は何をするべきなのかも何ができるかもわからず、漠然とした不安におびえ悶々と意味のない日々を過ごしていたように感じていたが、今思うと間違いなく輝く青春の日々だったのだなあと、眩しく思い出される。

 昔の詩人が、故郷は遠くで思い出すモノであって帰るところじゃないよと歌っていたが、遠くにあって読む故郷のことを書いた文章は心を打つ。

 

○笙野頼子「笙野頼子三冠小説集」河出文庫 同郷の作家って他にいないモノかとググったところ意外に大物がいました。「芥川賞」、「三島賞」、「野間文芸新人賞」という純文学系新人賞三冠達成という派手な経歴。なぜこれまで知らなかったのだろうか。

 それぞれの受賞作「タイムスリップコンビナート」「二百回忌」「なにもしていない」が納められているが、なんというかハチャメチャなパワーを感じさせる文章。マグロと恋したり、赤い喪服でご先祖様を迎えたり、近鉄線でやんごとなきお方と故郷に帰ったりと、前衛的というかシュールというか意味不明なのだが、グイグイと読まされた。

 筆者は、なんかの新人賞をとってから、ほぼ10年鳴かず飛ばずで引きこもりのような生活のなかで執筆を続けていたようだが、時代が彼女に追いついたのか、彼女の才能が開花したのか立て続けに受賞。以降、純文学不要論に噛み付いたり、猫をひろったり、バリバリ文学しているようである。他の作品も読んでみたい。

 

○西村賢太「小銭を数える」文春文庫 帯に町田康が「激烈に面白い」と書いていたので読んでみる。筆者は芥川賞受賞時にも「連絡がないのでそろそろ風俗の店に行こうと思っていた。」と言ったというエピソードが紹介され、前科持ちという経歴もあいまって今時珍しい無頼派の雰囲気を醸し出していた。私小説しか書けないと本人が言っているように、モテない風俗好きの主人公が、やっとできた同棲相手とも、短期で偏屈な性格から衝突を引き起こす様を書いた「焼却炉行き赤ん坊」と自身が傾倒する作家の全集を作るために金策に奔走し、同棲相手と諍いを起こす「小銭を数える」の私小説2編だが、何しろ筆者自身であると思われる主人公のクズッぷりに感心させられる。私小説なんて露悪癖でもなければ書けないと思うが、立派な全集を出さなければ行けないという変なプライドのために、メチャクチャな言いがかりのような理屈であちこちに借金を頼み込み、貸してくれないとなると相手が悪いかのようになじったりする主人公に嫌悪感を抱かずにおられない。読んでお世辞にもさわやかな読後感は得られないが、それでも迫力のある文体には引き込まれてしまった。

 

○あずまきよひこ「よつばと!」1〜10巻電撃コミックス 評判が良かったので、電車で1日1冊ペースで読んでみた。話は翻訳家のとーちゃんが、経緯は不明だが外国で拾ってきた(養子?)少女、よつばちゃんの日常を切り取った漫画。とーちゃんの友達やお隣の3姉妹などとの交流が描かれている。なんということもない話ばかりなのだが、よつばちゃんの台詞や行動が、いかにも小さい子供がやりそうだったり、背伸びした様子がうまく書かれていたりでほのぼのと笑える。

 

○上野顕太郎「さよならもいわずに」ビームコミックス 作者の妻の死の周辺を書いた私小説のような漫画。上野顕太郎といえば実験的なギャグマンガを書く人というイメージがあったが、今回は「妻の死」というヘビーなネタをじっくりと書いていて、大切なモノを失った喪失感がひしひしと迫る内容だった。妻の死を「表現者としては書かずにいられないおいしいネタ」ととらえるところがいかにもプロの表現者という感じだ。

 

 

<11.3.14>

○池澤夏樹「光の指で触れよ」中公文庫 ネパールに行って風力発電の風車を作る技術者の家族の物語を書いた、前作「素晴らしき新世界」の続編。前作では嫁さんが理屈ばかりこねて女性的魅力に欠けるとケン一に酷評されていたが、その魅力の無さからか?ダンナの浮気が勃発。嫁さんは娘を連れてヨーロッパの友人宅を経て農業コミュニティーへ。

 前作で作者は、小規模な風力発電という概念を軸に、今後のエネルギー供給のあり方などに思いを馳せていたが、今回は、非商業的な小規模、自己完結的な農業と人が生きていくための精神的な拠り所、についての作者の思想的模索が根底にあるようだ。

 作者の思考パターンと当方の思考パターンはけっこう似ていると思う。当方も、大量消費文明の行き詰まりを感じるにつれ、基本的には地産地消的な小規模なコミュニティーへの回帰と、物質的豊かさとは別の豊かさを心の拠り所に置く価値観の醸成が必要になってくるのではないかと感じていて、作者の思想を反映しているのだとおもうが、小規模自給農業を目指すダンナや原始共産主義的農業コミュニティーに身の置き場を求める嫁さんに共感を覚えた。しかし、いわゆるスピリチュアルな精神世界に傾倒していく嫁さんにはついて行けない。今の世の中、似非スピリチュアルが溢れており、およそそれらは人の精神的支柱となり得るていをなしていないと思う。大昔の小さな共同体単位で生活が成り立っていた時代には、共同体全体の意思を「神がかり的」に代弁する巫女的存在が重要な役割を果たしていたことは充分あり得た話だと思う。巫女や神官は儀式における陶酔や薬草などによるトリップ、時には精神病発作的な状況の中で、様々な情報を無意識下で統合して導き出した指針を「神の声」として伝えたのだと思う。

 しかしながら、今の時代は情報があふれかえり、しかもその情報が次々に変化の波にのまれて古くなってしまう。こういった情勢の中で正しく「神の声」を導き出すことはまず無理だろう。テレビで見るスピリチュアルな能力者が、ペテン師か良くて人生相談の域を出ないのを見れば自ずと現代におけるスピリチュアルな存在の限界が見えるというものだ。現代においてスピリチュアルな存在を頼りに人は生きていけないと思う。新たに小さな共同体の社会を目指すとしても、今更すでに失われているスピリチュアルな存在を引っ張り出して精神的主柱に置くのは難しいと当方は思う。このあたりの感覚は、親族間のつながりが緊密で、いまだスピリチュアルな存在が機能しているらしい沖縄に住んでものを感じてきた作者と当方の感じ方の違いがあるのだろうか。それなら、何を心の拠り所に生きていけばよいのかと問われると、当方も確固たる意見はないのだが、何となく、哲学的な思考を基本にしながら、頭の後あたりに八百万の神々を意識しておくあたりが妥当な線かなと考えている。

 最終的に、ダンナは発電機メーカーを辞めて自給農家をめざし、嫁さんは戻ってきて元の鞘に収まったが、ダンナの元には返ろうと思っていなかった嫁さんの突然の心変わりがイマイチしっくり来ない感じが残った。10年後ぐらいに、社会情勢の変化や作者の経験を反映させて続編を書いてもらいたいところ。

 

○夢枕獏「餓狼伝13」「新・餓狼伝」 引き続き、古武術スクネ式の秘伝を追う勢力の動きがあり、総合格闘技のトーナメントが進み、主人公文七はジャイアント馬場をモデルとしたカイザー武藤と戦うことが決定したところまで話は進んだ。新となっても特にストーリーが一新されているわけではなく実質14巻に当たる。現在出ているシリーズ全巻を読み終わってしまったが、作者が連載当初に当面の物語のクライマックスと見ていた、主人公文七と大山倍達がモデルの松尾象山との対決はまだまだ先になりそうな気配だ。

 

○夢枕獏「キマイラ」シリーズ1〜4ソノラマ文庫 餓狼伝を出ている分は読んでしまったので、漠さんのこれまたいつになったら終わるのかと心配されている長期シリーズものの「キマイラ」シリーズを読み始めた。体の中に謎の幻獣キマイラが潜みその顕在化に翻弄される主人公、あやしい武術をつかう老師、熱血巨漢の友、はかなげなヒロインに敵か味方か?謎の美少女、同じくキマイラを体の中に住まわせる敵役と、何とも正しい昭和の伝奇物語臭がプンプンする物語である。平井和正のウルフガイシリーズとかを思い出させる雰囲気だ。サクサク読めて続きが気になる読み応え。

 

○谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズ6〜9角川スニーカー文庫 アニメで途中まで視聴、その後原作ライトノベルを購読という最近よくあるパターン。アニメ化は数年前で、かなり話題になった作品ではあるものの、学園もので女の子のキャラを前面に出している作品であるため、いわゆるラブコメものとかだと40がらみのオッサンが見るにはつらいものがあるなと躊躇していました。が、試しに見てみたらまったくオッサンでも楽しめた。一言で言うのは難しいが、学園非日常SFモノとでもいうべきもので、語り部たる北高一年生キョン君がぼやきつつ話が展開していく。本人気付いてないものの世界のありようにさえ影響を与えてしまう「涼宮ハルヒ」を中心に、ハルヒ監視のためにそれぞれの思惑を持って高校にもぐり込んでいる、宇宙人?「長門有希」、未来人「朝比奈みくる」、超能力者「古泉一樹」たち登場人物が巻き起こすドタバタ劇がえがかれている。けっこうハードなSF的展開が多く、タイムワープネタが2重3重に伏線を張り巡らして進行して、最初の方に出てきた細かいネタが後になってキッチリ回収されたりして感心させられる。ちなみに長門有希の宇宙人の後に?を付けたのは、彼女の細かい設定が、「宇宙の情報統合思念体が造り出した対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」というハードSFなものであるためである。シリーズしばらく新作が出ていなかったようだが、5月には出るようである。楽しみである。

 

俺の読書 01Mar2011>

  ムツゴロウの地球を食べる 畑正憲 文春文庫

 中学生の時以来?ムツゴロウおじさん手に取りました。 昔テレビによく出ていた頃に感じた、動物好きなのはよお〜く分かるけどちょっといっちゃってるなこのオジサン、という印象が強く、ややキワモノという先入観から長いこと手にすることがなかった。 読んでみると動物見たり研究する為に世界中歩き、そこで動物に接する時と同様体ごとぶつかっていくように色んなもの食べてらっしゃる。 気になったものはとことん納得するまで食べる、というスタイルは説得力がある。 開高健も食を語るにはグルメの前にグルマンでなければならない、というようなことを書いていたと思うが、それに近いことを言っている。

 当方、年々味覚の許容範囲が狭くなってきており反省もさせられた。

 もののついでにオイラが旅先で食って旨かったと思ったものをいくつかあげると、バンコクのシャングリラホテルの外のテラスで食した朝メシブッフェのフォー。 チャオプラヤのド真っ茶の流れと行きかう水上タクシーを眺めながら、という状況が記憶を美化させている。 タイペイの鼎泰豊の小龍包。 観光客いっぱいの超有名店やけど地元民もふつうに並んでいた。 シュウマイぐらいのそれを口に入れると熱々のスープが流れ出し、どうやって作るのか長いこと不思議だったのだが、ゼラチン状のものを包むらしいと最近知った。 先々月行った明洞の外れの参鶏湯専門店。 日本円にして800円そこそこでもち米・ナツメ・朝鮮人参たっぷりで骨までしゃぶりついた。 ううむこうやって思い起こしてみると悲しいけれど旨い!と唸るようなものあんまり食ってないな俺。 グルメでもない我が味覚というと旨い、普通、まずい、の3段階評価しかないのだが、まずかった体験語らせたら幾らでもある。 酒に関しては正にシュチュエーションというのですか、状況が美味い不味いを決める最大の要素になっていて、はっきりいって自慢やけどヘンリーズフォークで24inch釣った晩、A-Barなる聖地の中の聖地で飲んだビール程美味かったものはない。 あとマレーシアのタイガービールとかね。 たいしたもん食ってねぇのに客観性だの舌で味わうだのと言ってしたり顔しつつエラそうな能書き垂れるグルメ気取りにはなりたくないな。 どこで誰と如何に食したか、というのが美味い不味いを決める決め手であって何の文句がある?

 

<俺の読書 24‐Feb‐2011>


 今日、日本橋の大先生に電話して「1年先のGWにコスタリカに行くつもりだが、大先生はGW頃に行く予定はありやなしや?」と聞いてみた。 毎年10月に出かけているが、特に予定が入らなかったら一緒に行ってもいいよ、とのこと。 それが良いか悪いか判断するのは各人それぞれやけど、大先生が一緒というのは、この手の大物狙いのそう何度も行けない遠征では10回分ぐらいの値打ちがあると思われます。

 GW頃も良いシーズンで、ルアーならばフッキングまでなら何回でもある(ファイト、キャッチは別やけど)こと、フライの場合700850グレインというとんでもない重さのラインが要ること、セイルフィッシュと違ってルアーとフライの21ボートとかでも問題ないこと、実釣56日の間に海に出られない日が1日ぐらいはあること、その場合川でスヌーク(20120cm)なんかを狙うこと、といった初歩的な情報を教えてもらった。


再読でお茶を濁す日々。 最近読んだのは、


□ 深夜特急 16巻 沢木耕太郎 新潮文庫

 ご存知、深夜特急。 読み物がない夜、ナニゲに読み始めたら6巻ともいってしまった。 巷に溢れる旅行記とは一線を画する、末永く読み継がれるであろう紀行本。 スタート地点の香港マカオの熱と、中盤以降の旅を続ける事が目的になりつつある倦怠期、といった心境の変化の描写が深夜特急が深夜特急である所以。 終盤は如何にしてこの旅を終わらせるか、という自問がテーマになっています。



□ 怪物狩り 小塚拓矢 地球丸

 嫉妬させられます。 ピラルクーやらナイルパーチやら憧れの魚を釣っていることよりも、釣り専門のツアー会社などに頼らず辺境に滞在して自力で魚を見つけていくバイタリティがなかなか普通の釣り師には真似の出来ないレベル。 20代の頃にもっとやっておけば良かった、などと思ってしまったりしました。 まぁこれは30代だろうと40代だろうと同じことで、足腰立たなくなって川にも行けなくなる?70ぐらいになった時に、50になるまでにもっとやっとけば‥‥、などと思わないように今を頑張らんとアカン、ということ。



□ 杯 〜緑の海へ〜 沢木耕太郎 新潮文庫

 日韓共催ワールドカップ観戦/漂流記。 アジアカップの興奮冷めやらない頃、今の本田圭佑、長谷部、長友、香川といったメンバーと、ひと世代前の中田や小野、稲本といったメンバーと何が違うのかと思ってこれも再読。 もう一世代前のカズやゴン中山の時代まで遡らないと違いを表現するのは難しいようだが、監督によって同じメンバーでも大きく変わる、というのを再確認。 

 

<11.2.8>

○夢枕獏「餓狼伝6〜12」双葉文庫 古武術やらグレイシー柔術やら出てきてヒートアップ。日本とアメリカで総合格闘技の試合が行われた。このあたりは現実の格闘技の動きとかなりリンクしている模様。アメリカで実際に行われた最初の何でもありの金網マッチで勝ったのは、グレーシー柔術のホイス・グレーシーで格闘技の歴史に残る事件だった。そのあたりも意識して書かれている。毎回毎回飽きさせないように迫力の格闘シーンが展開される。登場人物も増えそれぞれのエピソードが絡み全く終わる気配がない。

○池澤夏樹「虹の彼方に」講談社文庫 2000〜2006年までの時事ネタを扱ったエッセイ。「9.11」や「アメリカのイラク侵攻」とは何だったのか。思い起こすにはちょうど良い時期かもしれない。思い出してみてもありもしない大量破壊兵器を根拠にアメリカはむちゃくちゃなことをしていたことは明らか。敬虔なクリスチャンであるブッシュに対し「ホワイトハウスにモニカがいた不道徳な時代が懐かしい」との筆者のぼやきに苦笑。その後アメリカには期待を背負ってオバマ大統領が現れたが、どうも苦労しているように見える。これからのアメリカは、世界はどうなっていくのだろう。

○いしいしんじ「雪屋のロッスさん」新潮文庫 独特の味わいの文章。今回は短編集でやや薄味な気がしたがまずまず楽しめた。

○山田風太郎「忍法八犬伝」山田風太郎 山田風太郎の忍法モノは結構読んでいたが、まだ読んでなかったものを発見。8つの珠を取り合う忍者合戦なのだが、相変わらずのはちゃめちゃぶり。ナニがはちゃめちゃかというと出てくる忍法が「摩羅蝋燭」だのおよそいかがわしいものばかり。この辺のはちゃめちゃぶりは一周回って今新しいかもしれない。そういえば「甲賀忍法帖」は「バジリスク」の題名で最近漫画化されていた。山田風太郎ぐらいぶっ飛んでいると時代を超越して新しいのかもしれない。

 

<11.1.11>帰省時に読んだものや、年またぎで読んだ数冊

○池澤夏樹「きみのためのバラ」新潮文庫 短編集。旅の一コマだったり、不思議な空想の概念の話だったり内容様々。でもなぜかこの人の書くものは楽しく読める。相性なのだろうか。

○池澤夏樹編「本は、これから」岩波新書 「編」とあるのを見逃してアマゾンでポチッと注文してしまった一冊だが、電子書籍元年と呼ばれた2010年末に読んだのはタイミング的に良かったかもしれない。多くの論客の共通認識としては、紙の本がなくなっても「読書」自体がなくなるわけではないということと、紙の本自体も良いところがありすべてなくなるということは無いだろうということあたりか。はたして電子書籍は革命的に便利な読書生活を構築してくれるのか?いろんな可能性が示されているだけに今後に注目したいところ。

○新家邦紹「ブラジル釣行記」株式会社廣済堂 オーパ!以来、アマゾンからのレポートはいくつか読んできたが、その中では一番、釣りの技術的にレベルが高かったのではないだろうか。旅の最大のターゲットであるピラルクーをはじめ、アマゾンの人気魚をきっちりと釣っている。文章も釣り自慢の下品さが押さえられていて読みやすい。魚に限らず鳥、獣、虫、街などについても目線が向けられていて、そのあたりも好感が持てた。

 

 

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