○人間失格の基準

 

 「ああ、やっぱナマジも人間失格側の人間やよな!」

 

 友はそういって嬉しそうにニコッと笑った。

 

 どういう話の流れだったか忘れたけど、高校生の時、何人かでダベッていた時に、ふと話題が小説関連になって、僕が「人間失格の主人公の、人前ではウケ狙ってわざとおどけてみせるところとかさ、ああこの主人公自分と同じようなこと考えてるなって思ったわ。」という台詞を吐いたところ、件の友人が冒頭の台詞を吐いて「オレも一緒、あれは「こいつはオレか」と思うよな」とかなんとか言っていたように記憶している。

 

 人間は「人間失格」側の人間とそうじゃない側の人間の2種類いる。

 

 「人間失格」側じゃないからといって、「人間合格」でもないし、そもそも「人間失格」側が文字通りの人間失格のクズだと主張する気もサラサラ無い。ようするに世の中にはいろんな基準で人を2分にする方法、例えば「ブルジョア」か「労働者階級」かとか、パートナーの携帯を勝手に見る派か見ない派かとか、きのこの山派かたけのこの里派かというような、お互い別の側の考え方が理解できないような相反する2派に割とクッキリ分ける分け方があって、その一つのうち結構重要なモノに、太宰治の小説「人間失格」を読んで主人公に対して「オマエはオレか?」というぐらいの共感を感じる人間と、そうじゃない人間がいると僕が思っているということである。

 

 はやめに書いておくが「人間失格」側が、特別な優れた少数派だというつもりは全く無い、ごくありふれた存在だ。ついでに書いておくと「人間失格」側の人間がみな非生産的でアウトローな野郎ばかりでもない。

 

 新潮文庫版の「人間失格」は、もう10年ぐらい前の古い話で恐縮だが、書かれて何十年もたったその時点でも年間1億だかを稼ぎ出すお化けコンテンツで、日本文学では他には夏目漱石の「こころ」ぐらいしか例がないほど売れ続けていると聞いた。つまり結構多くの人が「人間失格」側の人間でこの小説を共感を持って受け入れ、それは時代が変わってもあんまり変わっていないというか、ますますそうなんだと思う。

 

 ちなみに人間失格側の人間はどんな種類の人間にもいる。例えば学校のクラスでの立場でいうなら、優等生にもヤンキーにもオタクにも、体育会系ににもいる。でも、サブカル系の創作物とは相性が良いので、「人間失格」側のマンガなんかが、オタクからヤンキーに、優等生から体育会系にとかクラスの立場を越えて回し読まれたりしていた。ちなみに件の友は高校生で国体の強化選手に呼ばれるぐらいの体育会系だった。

 

 サブカルというのはメインカルチャー(その時々の主流となっている文化)に対する相対的なものなので、太宰のころのある種の「文学」なんていうのはまさに人間失格の穀潰しの道楽者がやるようなモノで結構サブカル的側面もあったと思っているが偏見だろうか。鴎外や漱石のような洋行帰りのエリートが書いた文学より、ラリリの穀潰しである太宰や芥川の書いたものの方が僕には面白い。というか漱石も鴎外もナニが面白いのか全く分からなかった。漱石が面白く感じられないというのは若い頃かなりコンプレックスで、どっか別のところでも書いたけど、大学で「こころ」の講義を受けてみたけどやっぱり面白さが分からなかった。今思うとアホな話である。人が何を面白いと思うか、ナニに共感するかなんていうのに、一般論や共通性や理屈もヘッタクレもありゃしないわけで、僕が面白いと思う作品が、唯一僕が面白いと思う作品の共通点であるということが、最近では僕の中でとりあえずの解答になっている。

 

 ひょっとすると「人間失格側」の対義語は「こころ側」かもしれないと、先ほど書いたような売れ方やら、ネット上で日本文学の最高峰はナニかという話題になると「こころ」をあげる人が多いのを見たりして思うが、「こころ」のナニが面白いのか理解できない「人間失格側」である僕が、それが正しいのかどうか判断することはできないように思っている。反証としては「人間失格」も「こころ」も楽しめる人間がいると対をなす概念とはなり得ない。

 

 

 「恥の多い生涯を送ってきました。」という、雪国の「クニザカイのトンネルを抜けると・・・」ほどではないけど、そこそこ有名な書き出しで始まる「人間失格」という小説は、太宰本人をモデルとした駄目駄目な主人公のクズ人間ぶりという要素よりは、「主人公が本心を他者に隠して生きている」という要素が最も重要で、むしろそのことがほぼこの物語の大事な部分すべてであると言い切りたい。そこから派生して発達障害らしい同級生が主人公の「演技」を「わざ」とだと見破ったというエピソードが、本心を他者に隠して生きているが故に、同類の人間を見つけにくい「人間失格」側の人間の震えるような心細さと、同志を見つけた時の喜びを表しているように思う。

 

 「人間失格」側の人間は、物心つく頃から思い悩む。

 

 「こんな人間のクズのような本心を隠して生きているオレは、とんでもなく罪深い人間ではないのか。」

 

 口に出さなければバレるはずはない、自分の心の中での人に対してのひどい裏切りや嫉妬等の醜い感情。異性への関心が高まれば、妄想でイヤらしいことの対象としてしまうのをとめられない卑劣さなんてのも、地味でありきたりだけど自分を嫌うのには充分。

 

 そういう嫌な自分を隠して、適当におちゃらけて適当に真面目ぶって、適当に皆とあわせて生きていると本当に自分は「人間失格」だという気持ちになってくる。自分はとても特別に罪深い人間なんだという気持ちになってくる。

 

 そういう思いは、簡単に反転して「自分は特別に優れている」という思いになりがちである。こんなに罪深く思い悩んでいる人間は他にいないだろう、なんて思い始めて、文学やら哲学やらに自分と同じように悩む偉大な先人を見つけると、自分は偉大な文学者や哲学者と悩みを共有しているような偉大な人間だと思ってしまう。

 

 その典型例が「オレは「人間失格」が深く理解できるぐらいの特別な人間なんだぜ」という、まさに人間失格側の人間のお約束の状態で、それがまあいってみれば人間失格側の通過儀礼みたいなモノで、人間失格に共感できる人間なんて、それこそ売り上げデータで裏打ちされているぐらいにいっぱいいる「普通の人間」だということが理解できるには、多少大人にならなければならないということだったのだと思う。少なくとも僕は高校生ぐらいにならないと分からなかったし、分かった後も頭では理解しているけど「自分は特別である」という甘い幻想からは、いまだ逃れ切れていないように思うし、正直それで自然だと思う。

 

 「本心を隠して生きている」のが人間失格側の人間の特徴だから、人間失格側の人間どうしのつながりは、「ああこいつは同じ側の人間だな」と分かることはあっても、相手がどこまで「本心を隠している」のか分からない理屈である。最後まで自分をさらしてくれる人間は「人間失格側」ではない。

 

 最後まで自分をさらしてくれる人間などイネーだろ?と人間失格側の人間は考えてしまうが、どうもいるようである、自分がそう思いたいのでそういう風に騙されている可能性は否定できないが、いると思っている。

 

 虫やハ虫類レベルのバカで、考えたことすべてを口に出してしまうか欲望のママに行動するので口に出さずとも分かってしまうような、隠しきれないバカもいるけど、そうでなくてもある程度、人を信用した上で本心をさらけ出しても、その本心が恥ずかしくないぐらいのレベルにある人がどうもいるように思える。周りにいませんか?理屈抜きに純粋にいい人。

 

 そういう、いい人と自分と同じ人間失格側の人とが区別が付かないなかで、自分と同じ人間失格側の人を見つけると、同志を見つけたような喜びを感じる。自分が一人、悩んでいるのではなく、同じような悩みを持つ人が他にもいるという事実には救われる。

 

 ということで、偉い先人達はもとより、今バリバリの現役の表現者も、世に人間失格側の作品を問い続けている。人間失格側の者達に「お前は一人じゃない」と語り続ける。そういう作品は脈々と一定数の人間失格側の者たちの「オレと一緒のこと考えてる人がここにもいた!」という打ち震えるような共感に支えられて、これまでもこれからも創られ続けていく。

 

 中島らも→大槻ケンヂ→滝本竜彦あたりの、由緒正しい「ダメ人間」文学の系譜は人間失格側の人間ならおもいっきり楽しめる本流筋だろう。

 オーケン先生は間違いなく「人間失格」大好きで、ぬいぐるみのボースカに文筆業を肩代わりさせてジャマイカでレゲエのリズムにたゆたうというような、まさに正しい人間失格側ダメ人間的思考の歌を歌っているが、その歌詞の中でボースカが執筆する傑作は「旧約聖書」、「太宰治」、「江戸川乱歩」の「続編」であり、太宰治の続編では「人間は合格した」という歌詞となっている。ついでにオーケン先生「踊るダメ人間」というそのまんまの歌詞の歌も歌っている。「この世を壊したって一番ダメな自分が残る」という歌詞は、人間失格側の心に結構鋭く突き刺さってくる。人間失格側の人間は、妙に高いプライドの山の分、自己嫌悪の谷の深さも深いのである。

 

 最近の作品では、マンガ「悪の華」の主人公の本当は自分はなんにも中身のないスカスカな人間だとうすうす気づいているのに、ボードレールの詩やら文学やらで「武装」して「オレは他のボンクラどもとは違う」と信じたがるその「痛さ」加減や、アニメ「ローゼンメイデン」の「巻かなかったジュン」の大学にもバイト先にも居場所のない、世界につまはじきにされたような孤独感とか、メチャクチャ人間失格側の魂にグサグサ刺さってくる良さがあった。

 人間失格側のサブカル野郎で良かった、こういう作品を楽しめる側の人間で良かったと思うぐらいに、味わい深い作品が今も次々と創られている。

 

 人間失格側の仲間たちよ、我々は祝福されているようだ。不安に打ち震える必要など本当はどこにもないんだよ。安心しておおいに楽しめば良いんだよ。

 と、僕は思っています。

 

(2013.11.22)

 

○阿部共実に刮目せよ

 「空が灰色だから」がネットでけっこう取り上げられることが多くて読んだ。驚く。危ういヤジロベーのような精神的なグラグラ感、頭がくらくらした。まだ若い漫画家のようでKindleで読めるのは後は「ブラックギャラクシー6」と「チーちゃんはちょっと足りない」くらい。全部面白いし、阿部共実が書いたと絶対わかる個性。基本学園モノなのだが、ブラックギャラクシー6は放課後に目的もないような部活に集うというSOS団とか隣人部とかみたいな、よくある形式のストーリーでややマイルドではあるがそれでも阿部共実臭が隠せない。「空灰」と「チーちゃん」は似たようなテイストで、思わぬヤツが実は良いヤツだった系のいい話から、お約束ごとの調和をずらして違和感と強烈な嫌な感じを演出してきたり、ド直球のクズがクズでしかありえない系の話とか、たぶんコミュ障のクズな人間失格側のオタク共が「痛い!やめてくれ!」と悲鳴をあげているような作風。チャンピオンからはたまに他の雑誌じゃ拾えなかっただろう凄いのが出てくる。この人にはこのまま突き進んでいって欲しい。人間失格側の野郎共のこの夏の推薦課題図書。

(2014.7.14)

 

 同性愛ぐらいで「変態」とかつぶやく人の気が知れない   変態の私的基準

(2015.12.3)

 

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