○マンガについて −本のページ番外編−

 

 マンガというものについて、当方が子供の頃には「マンガなんか読んでるとバカになる」と普通に真面目な顔して言われており、今でもその名残はある。あるんだけれど養老先生あたりがマンガ論を真正面からぶっこいたり、そもそも素晴らしいマンガが世に沢山出るに伴い、それなりにマンガの表現手法としての、もっと正面から構えるなら芸術としての評価というのはあがったように感じている。

 それでも、まだ「大人がマンガなんて読むもんじゃない」という意見は良く目にする。

 「マンガは芸術じゃなくて娯楽だ。」、「あんな低俗でくだらないものばかりを読んでいるのは恥ずかしい。」等々。

 そういう意見があるのも必然だと思うが、当方は確信を持って断言することができる。「マンガは芸術たり得る。」、「大人が読むに耐えるマンガはある」と。

 マンガに対する批判は、実は今ではだれもが芸術のひとつの分野として疑う人もいないだろう表現方法が、生まれてしばらくは同様の批判を受けていたことから考えれば至極当然の反応で、時間の経過とともにその批判はお笑いぐさになると予言できる。

 写真が生まれたときに、「単なる風景・光景を切り取っただけのものが芸術表現たり得るわけがない。芸術というのは絵画のようなものをいうのだ。」と言われていたそうだ。

 映画が生まれたときには、「あんな大衆に迎合した娯楽的表現が芸術であるわけがない、芸術というのは文学のようなものをいうのだ。」と言われていたそうだ。

 鼻で笑っちゃうでしょ?

 繰り返すが、今、マンガに対する批判を行っている人がいることは歴史の必然だとは思うけど、後生、笑われることになるのは間違いないと思う。

 ストーリー漫画の手法が手塚治虫らによって確立されたあたりをスタートにするにしても、それ以前の紙芝居→貸本あたりの流れを源流に求めるとしても、今のスタイルのマンガが生まれたのは、20世紀に入ってしばらく経ってからで、まだ生まれて100年も経っていない表現方法である。なにしろ創造主の一人と数えられるべき水木しげる先生とかがまだ御健在だもんね。

 ちなみに漫画ではなくマンガと書いているのは、紙に絵と文字があるというスタイル、新聞の風刺漫画や鳥獣戯画的なものも漫画といえばいえるのだけれど、今当方が語っているのはストーリー漫画ともよばれる、物語のある現在の主流となっている漫画を中心に4コマ漫画も含めたものとして、ちょっと絞った範囲のものを表現するのにマンガという書き方をしている。これは当方が便宜的・感覚的にそう区別しているだけで、全く根拠もなにもないものである。今書いている中ではマンガというのはそういうモノだとだけご理解いただきたい。

 マンガには娯楽的な要素の強い作品が多いことは確かにそうかもしれない。大人が読むに値しないような作品やら低俗な作品もある(当方は必ずしも嫌いじゃないけど)。しかしながら、極めて芸術性の高い、深い感動を与えてくれるモノも、表現の未来を切り開こうとするような斬新な作品も少なからずある。

 そもそも、芸術作品と娯楽作品っていったって、そんなにきっちり線引きできるモノではなく、マンガに限らず小説でも、映画でも、面白くてノリノリで楽しめる「芸術作品」もあれば、ド直球の「娯楽作品」の中に人間性の深淵を覗き見るような、心の深くに突き刺さってくるシーンがポロッとえがかれていたりすることもある。どう感じるかも人それぞれだ。あんまり芸術作品だ娯楽作品だと意味あるんだか良くわからんようなカテゴライズなど気にせず、面白いモノ、感動するモノ、心に衝撃を持って突き刺さってくるモノ、燃えるモノ、萌えるモノなんかをもとめて作品を楽しめば良いんだと思う。

 「芸術作品」を鑑賞して、深い教養を身につけよう。なんていう無粋な姿勢はあんまり作品を楽しむための方向として正しくないと思う。当方も若い頃はそんなふうに思って一所懸命、小難しい文学作品読んだりしていた。それはそれで若い頃にそういう経験をしたことが無駄にならずに良い肥やしにでもなってくれていると嬉しいんだけれど、正直、読みたいものを片っ端から、観たいものも低俗だろうが幼稚だろうがあまり気にせず楽しんでいる今のほうが、心から楽しめているし感動できる作品に出会えている気がする。

 無論、マンガがすべての人にとって面白い、価値の高いものかというと、そうではないということは理解している。小説が苦手な人もいるし、映画が苦手な人もいるだろう。同じような話でマンガが苦手な人もいるだろう。当方も絵画、写真、音楽などはあまり得意でない。嫌いじゃないけど小説、マンガ、アニメ、実写(映画・ドラマ)を楽しんでいるほどには楽しめていないように思う。

 人それぞれ、生まれて育った環境や持って生まれた才能や興味の方向が違うので、いろんな表現方法がある中で、得意な分野と苦手な分野があるのはむしろ当然で、たとえば、文字情報だけで構成され、シーンを想像したり行間をおぎなったりしながら読み進めていく「小説」が苦手な人なんていうのが珍しくないように、マンガについても、読み慣れていない人には、マンガの「文法」が分からずに、上手くその物語世界に入っていきにくかったりするのだろう。「マンガのコマ割りが不規則なので、どういう順番で読むべきなのか、同じコマ内の台詞の読む順番も含めて分からない。」という意見をきいたことがある。当方もとある少女漫画を読みかけて、ちょっと独特なコマ割りの仕方に戸惑って上手く読めなかった経験があるので、なんとなく理解できる。

 個人の資質や趣味趣向という、受け手側の都合で好き嫌いがあったりするのも当然ながら、逆に表現方法側からみて、それぞれの表現方法の特性から、テーマや内容によって得意な分野と苦手な分野も当然あるように思う。

 たとえば、物語性のある長いお話を表現するには、小説(便宜上乱暴だけどエッセイやノンフィクションも含めちゃう)、マンガ、アニメ、実写、演劇、話術(講談、落語、語り部etc.)が向いていて、一瞬の視覚的インパクトで勝負する絵画や写真、言語による表現を伴わない音楽などは向いていないと思う。絵画や音楽が物語性を含んでいないとは言えないし、物語をそれらで表現しようという試みもあり得ると思うが、言語というもので縛りをかけられないこれらの表現は、物語を再現するには解釈の自由度が高すぎるような気がする。逆にいえば言語のくびきを離れ、自由に想像を羽ばたかせてイメージをふくらませる要素があるというのはすばらしい魅力で利点でもあり、それら得手不得手は表裏一体の関係となっている。

 言語で縛りがかかっている表現手段間においては、ある程度「互換性」があるようにも思える。たとえば、ある小説をコミカライズし、アニメ化し、実写映画化し、舞台で演じ、朗読テープ(今はドラマCDというのか?)化するというのが可能で、実際にそういう展開はメディアミックスと呼ばれヒット作品には昨今ありがちなスタイルである。

 ただ、たとえ同じ物語を表現したとしても、小説には小説の文字を追い想像をふくらませ言葉の美しさに酔う快感があるし、マンガにはマンガの、迫力や美しさのある絵によって具体的にシーンが提示され、それに台詞や効果音が重なって統合的に物語が転がっていく面白さがあり、アニメや実写映像作品ではキャラクターが実際にしゃべって動く面白さなんかがある。アニメにはアニメ独特のキャラクター造形始め作品世界すべてのデザインの自由度が高く、リアルで本物の迫力を感じさせる実写とはまた違う楽しみがある。残念ながら演劇や話術系の表現媒体にはなじみがないのだが、それぞれハマればこれまたこれで良いものだろうとは想像に難くない。

 当方は、物心ついたころにはテレビ放送があり、アニメもドラマも見ることができた、さらに6才年上の兄と、9才年上の姉がおり、兄が少年ジャンプ、マガジン、サンデーを買っていたので、小学生にあがる頃にはそれらのマンガに当然親しむようになった。「チャンピオンはどうした?」といぶかしむ方もおられるかもしれないが、チャンピオンは近所の床屋さんにあったので散髪時にぬかりなくまとめ読み。

 小説は小学生の頃は、椋鳩十とかシートン動物記とかヤマネズミロキーチャックシリーズとか生き物系の読み物しか面白いと思わなかったが、中学生ぐらいになるとドクトルマンボウモノやらウルフガイシリーズやら、思春期にはお約束の太宰治やら、姉の本棚の芥川やらを皮切りに、小難しそうな「文学」から今で言うライトノベルのようなティーン向けの赤川次郎やら新井素子やらまで読みまくり、「オーパ!」との衝撃の出会いを経て高校の時のケン一の本棚との蜜月を経て、痛勤電車で乱読状態の今に至るという感じ。

 マンガについては、基本的に4大少年誌は大学卒業までずっと継続して読んでいた。加えて高校生の頃にはマニアな友人からまわってくるコミックバーガーとかのマイナー誌も読み、大学生の頃は青年誌のスピリッツ、ヤンサン、ヤンマガ、スーパージャンプ、モーニング、それから月刊誌季刊誌の月マガ、アフタヌーンも読んでいた。貧乏なので少年ジャンプと少年マガジン以外はコンビニ立ち読みである。部活が一緒のオタク仲間と雑誌発売日にはコンビニで良くかち合った。お互い「よぉ」「おぉ」ぐらいの挨拶とも言えぬ挨拶のみで黙々と立ち読み。一部始終を見ていた部活の他のメンバーから「オタクってすげー、全く他人に興味ないのな」と妙な感心をされた。

 就職後もしばらく大学と同様多数のマンガ誌を読んでいたが、次第に少年誌についていけなくなってしまい、しばらく、モーニング、少年マガジン、少年チャンピオンという時代が続いて今現在、毎週読んでいるのはモーニングのみ。少年誌で、「なんかこの新連載つまんねーな、どうせすぐ打ちきりだろう。」と思っていたマンガが人気を得て表紙を飾るようになり、気がつくと連載している漫画の大半が、そういう既に今時の少年とは違ってしまっている自分の感性では読めないものになっているのに気づき、少年誌は読むのをやめていった。青年誌はお気に入り連載多数のモーニング以外はもともと1、2本の連載だけを目当てに読んでいたので単行本になってから、マンガ喫茶やらアマゾンで大人買いやらでまとめて読むことにした。その時代時代の少年の求めるモノがあり、名作は古くても今の少年も楽しく読めたりするけど、その時代の少年だけが読める作品というのもやはりある。そういうのもたぶんいっぱい読んで来たとおもう。幸せなマンガ体験だったと思う。

 あと、少女漫画も結構読んできた。姉の本棚の萩尾望都から、ケン一のお姉さんの蔵書、学生時代の彼女のお薦め等々。これまた面白いのがいっぱいあった。昨年はちょっとハマって萩尾望都、山岸涼子という少女漫画界の生ける伝説の作品を結構集中的に読んだ。少女漫画の「文法」もそこそこ身につけておいてよかったと思うマンガ体験だった。

 こうやってみてくると、当方にとっては「小説」と「マンガ」というのが、特別親しんできた存在で、比べればアニメも映画などの実写も味わった数や費やした情熱は少ないと思う。写真や絵画、音楽はさらに不勉強だ。興味がないわけではないのでまあこれからボチボチ楽しんでみれば別に良いんだと思うけど、それでもこれからも「小説」と「マンガ」という「本」が一番のお気に入りであることは変わりないだろう。

 なぜ、本が好きなのか、「好きだから」としかいいようがないのだが、自分なりに分析すると、本だと、良いシーンとか良い台詞とか、考えさせられるような場面とかが出てきたときに、一旦止まってじっくり味わったり、じっくり考えたりという間がとれるのが良いと思うし、逆に興が乗れば一気呵成に読み切ってしまうというのもまたこれ良しで、自分のペースで読めるのが良いのかなと思ったりする。映像媒体でも一時停止するということは可能だが、映像は基本、自然な時間で流れの中で味わうべきような気がする。アニメでパンチラシーンを一時停止するとかは邪道だと思う。チラッと見えるのが良いのであって止めちゃダメでしょ。

 いらん脱線したけど、本の「小説」と「マンガ」とどちらが好きかと問われれば、正直、面白いマンガを読んだ後は「マンガ最高!」と思うし、良い小説読んだ後は「やっぱ小説やな」と思ったりする。

 そうやって、小説、マンガを読みまくってきた中で、小説でも多少感じるけど、特にマンガで、これまで読んで来たマンガ、小説、その他から得た知識がある種の「教養」となっていて、マンガを読むのに非常に役に立っている、あるいは、面白さを後押ししていると感じることが多々ある。

 単純にパロディーのネタ元が分かるというような場合でも楽しめるが、そのマンガが下書きにしている大元の物語が、古い神話だったり、古典文学だったりするのを理解していると、よりその作品世界に深く浸ることができたりもする。

 文学方面はあまり古典を読んでいないのでそっち方面の教養については必ずしも優れた知識があるわけではないが、マンガについては、さすがに読んだ量が量なのでそれなりに古い作品から新しい作品まである程度フォローできていてそれなりの「教養人」であると自分では思っている。逆に言えばそういった「教養」を持たない論者が安易にマンガについて批判をしているのを目にすると、小説を読んだことがない人間による「小説批判」と同様の馬鹿馬鹿しさを感じる。

 マンガを読むにも、ある程度身につけておかなければならない「文法」やら「教養」やらがあり、そういった素養を持たずして行われるマンガ批判には、正直あんまり意味など生じていないように感じている。

 では、実際にマンガ読みがどのようにマンガを読んで楽しんでいるのか、そのあたりの具体例として、当方が最近読んで面白かった「絶対可憐チルドレン」をその面白さに関連する項目をピックアップし、解説してみたい。このマンガは当方にとって、とても面白いマンガであり、作者と年代が近く、パロディーやらのネタに共通の時代感を感じることもあって、解説するにもちょうど良い作品ではあるが、このマンガが特別素晴らしいというつもりはない。しかしながら、当方世代が親しんできたストーリーマンガの非常にオーソドックスかつ王道的な要素がちりばめられた、良い教材ではあると思う。

 マンガ読みのマンガの楽しみ方の一端でも感じていただき、マンガ読みがマンガを読まずにいられない理由・心情をご理解いただければと思う。

 

 ただ、他者の理解不能な趣味について、「どうしても理解できない」という場合や「生理的にダメ」というパターンはごく当たり前にあり、今回の「具体例」については、ここで今書いている一般論的な話より、かなり突っ込んでいった内容なのでまったくついていけない人にはついていけないことがあり得る。その場合、人間の心理として他人に自分が理解できない部分をみつけた場合「気持ち悪い」と感じることがあり、人によっては不快感を感じるかもしれないので、その辺はあくまで自己責任で。ちらっと覗いてざっとスクロールさせてみて、いけそうかダメそうかあたりを付けてから読んでもらいたい。無理に読んで面白いモノではないし、その必要もないただの個人の楽しみ方の一例でしかない。

 当方も、特に犯罪でもなく暴力的でもない他人の趣味に「気持ち悪」くて吐き気をおぼえたような経験がないわけではない。偏見であり恥ずべき心理だと理屈の上では理解しているが、理屈だけでは避けようがない心の動きでもあるので、自分のキモオタ的な趣味・趣向の深いところをさらけ出したときに「気持ち悪い」と思われてしまうことはある程度覚悟している。

 それでも自分が好きなモノを好きといって擁護してやれないようなやつはオタクの名折れだと思うから、覚悟のうえで公開してみるしだいである。

 ナマジというネット向けの当方の顔というか人格は、当たり障り無く「マンガなんか40にもなって読んじゃってるんですよ、幼稚ですよねエヘヘ。」と言っている、実社会での当方の顔とは違い、好き放題言いたいことを言う人格である。どちらが偽物本物ということではなく、どちらの面も当方には内包されている要素だけど、実社会では上手く社会に溶け込んで生きていくために必要な顔があるし、無記名のネットじゃないと出せない顔もあり、そのネットで出してる顔のややマニアックすぎて不気味な部分は、ここだけの顔とご理解いただき、読んだ後不快でもご容赦いただきたい。

 あと、独自解釈であくまで当方がこう読んだという話なので、間違いやらなにやらあると思いますが、その辺、まあ釣りのサイトの本筋離れたところでチマチマやっているのでうるさ型のマニア筋からおしかり受けるというようなことはあまり想定はしていませんが、もしマニアな方の怒りに触れるような部分がありましたら、これもご容赦を。事実誤認等は指摘いただければ訂正しますが、解釈の部分は変えるつもりはないです。

 当たり前だけど好きなように読むゼ。

 

 それから、今後も良いマンガが沢山世に出て、少年少女からジーさんバーさんにいたるまで、それらを楽しく読むことができることを切に祈るところです。

 とくに、少年少女の健全な精神の育成には、小説、映画、音楽、写真、絵画等々とともに、今では良くも悪くもマンガが大きな役割を果たしていると思うので、若い衆が良いのも悪いのも含めたくさんの表現に出会い、実体験と併せて人格形成に役立ってくれればと願ったりする。まあそんなこと当方が願わなくても、そうなっていくのだけれど、老婆心ながらというヤツである。

 当方にとっても、マンガを読むのは楽しみで有り続けるはずだ。感動巨編から、お下劣なバカバカしい作品まで、心のそよぐままに楽しんでいきたい。

  

以上

(2012.3.18) 

具体例を読んでみようという方はこちらをクリック

 「絶対可憐チルドレン」個人的解析 

(2012.3.24) 一応書き上がってますが、解答編も追加していく予定。

 

 アニメ・映画など日記 

(2012.4.19) 読書日記にアニメと映画の話を書いてましたが、読書じゃないので今後はこっちに書きます。過去の分はご容赦を。

 

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