○恵まれていない者、汝は幸福である −自分にとって大物とは何なのか−

 

 当方は、ロウニンアジ狙いにおいて目標を20キロUPと公言している。

 そして、その目標を掲げてロウニンアジ狙いを初めて既に15年近くになるが、いまだその目標は達成できていない。

 

 目標が達成できていないことはもとより、そもそもロウニンアジ狙いで目標が20キロということについて、ここ10年くらいで飛躍的に技術が進歩し、エキスパートたちが50キロ以上を狙って仕留めてくる時代に、「なんと志が低いのだろうか。」、「へたくそすぎる。」と思う方もいるのではないだろうか。

 本人がそう思うこともあるぐらいなので、そういう感想をもつ方がいても自然だと思う。もし面と向かってそう罵倒されたとしても、残念ながら反論はしにくい。確かに現在の最前線のGTアングラーと当方の間にはかなりの差が生じてしまっている。客観的には罵倒の内容は事実ではあるのだろう。甘んじて受けることとしたい(註1)。

 

 しかしながら、主観的には志が低いつもりはないし、先鋭的なエキスパートに比べればへたくそかもしれないが、それでも腕も磨いてきたつもりである。

 170センチちょいで50キロ後半の体重というどちらかというと華奢といって良い体格で、南の島への遠征も年に1,2度行けるかどうか、その1,2度すら近年は健康面の問題から行けていなかった。

 そういう中で、試行錯誤を繰り返しながら自分なりの限界を見極めて、何とか珊瑚礁の水域で、ロウニンアジの引きをコントロールし主導権を握り根ズレを回避しながら、「ラッキー」ではなく釣り上げることができるサイズが、20キロUP30キロぐらいまでだと自分では判断しているのである。

 40キロ、50キロ以上というようなサイズのロウニンアジがかかった場合、当方の体力、技術、道具立てではファイトの主導権を握ることは難しく、よほどの幸運に恵まれないかぎり釣り上げることはできないだろう。そういうサイズを目標とすることはおこがましくて、恥ずかしくて当方にはできない。

 体力、技術が精一杯がんばって今のレベルでしかないのに、あきらかに扱いきれない今時の大型GT用のタックルに手を出す気も無い。

 40キロだ50キロだと景気の良い話が当たり前のように語られているが、自分の実力はきちんと見極めて、自分の身の丈にあった目標を掲げているつもりである。

 

 以前、読んだ本の紹介コーナーで、沢木耕太郎の「凍」という、先鋭的なクライマーである山野井夫婦のヒマラヤ・ギャチュンカン挑戦の壮絶な様を描いた物語を紹介した。そのときに、沢木氏が、後方支援も装備も必要最小限でおのれの高い技術をもって、信じられないようなクライミングをやってのける山野井夫婦とくらべて、お金を払ってシェルパを雇い荷物も運んでもらって、ルートに沿ってロープ伝って酸素ボンベを利用してエベレストの頂に立つアマチュアレベルの登山家について、えらく批判的に書いていることに強い違和感を感じて「そりゃ自分の取材対象と比べりゃそう思うかもしれないけど、それでも自分の心の山に登るために一生懸命仕事に折り合い付けてお金も作ってトレーニングもしてやってくる「草登山」レベルの人にそんなにダメ出ししなくても良いじゃないかと思う。その人たちにとっては一世一代の大勝負だと思うけどどうなんだろ?」と書いた。今もその思いに変化はない。

 あきらかに、当方は山野井夫婦の側ではなく、草登山家の側の人間だ。

 

 草登山家のエベレスト登頂に意味はないのか、草登山家のエベレスト登頂に喜びは、満足感はないのか?

 当方はあると信じている。歴史的な偉業でも何でもなく、客観的には特筆すべき事項はない登山かもしれない。それでも、エベレストは今でも世界最高峰の山であることに変わりなく、天候に恵まれなければ撤退を余儀なくされたり、運が悪ければ命を危険にさらすことにもなるだろう。登っている本人にとっては、命をかけた一生一度のぎりぎりの挑戦で、運良く天候にも恵まれて登頂を果たしたならば、その人の登山家人生がむくわれるような素晴らしい登山になるのではないのだろうか。

 山野井夫婦のすごさには圧倒されるし素晴らしいと思ったが、当方は名も無き登山家が、酸素ボンベだろうとポーターだろうと、なりふりかまわず使えるものはすべて使ってでも、必死にたどり着くエベレストの山頂にこそ強くシンパシーを感じるのである。

 

 「他と比較してレベルが高くなければ、やる価値はないのか?」

 「好きなモノがあっても、その道の才能がなければ続ける意味はないのか?」

 どちらの問いに対しても、当方は「否!」と声を大に主張したい。

 

 残念ながら、誰もが才能に恵まれているわけではなく、努力しても、華々しい活躍ができる者とそうでない者に別れてしまう。

 野球が好きで、沢山練習しても誰もがイチローになれるわけではない。高校野球で甲子園で活躍することができる人間でさえ限られた、いわば恵まれた者だけである。さらに上のプロでその中でも超一流になれるのはほんの一握りの人間だけである。

 レベルが高くなければ価値がないのなら、才能がなければ続ける意味がないのなら、ほとんどの野球少年たちは価値のない、意味のない青春をおくったということになってしまう。そんなことは絶対に無い。そんなことを言うやつがいるとしたらオレは許せない。

 客観的には意味が無かろうが、価値が無かろうが、好きなことがあってめいっぱいがんばって、めいっぱい楽しんだなら、その人のその楽しみはその人だけのかけがえのないものであるはずだ。

 

 手長エビ釣りに自転車でポイントに向かう途中、河川敷のグラウンドでイチローにはなれなかった野球少年のなれの果てたちが野球を楽しんでいる。屈託無く実に楽しそうに見える。試合が終わったらうまいビールが待っているのだろう。

 イチローが感じる、高いレベルに到達した者だけが得られる喜びや満足感があるのだろうとは思う。そうであったとしても、河原の草野球の後のビールの甘さが否定されることもなければ、その楽しみが卑下しなければいけないものであるわけもない。

 

 ひとは、自分の身の丈にあったレベルで精一杯がんばって、精一杯楽しめば良いんだと思う。

 自分の中で、20キロのロウニンアジが大物だと思うのなら、その心の中に泳いでいる自分の大物に向かって努力して、楽しめばいいと思っている。そう思うのだが、時々確かめていないと、他人と比較して、華々しくスポットを浴びている雑誌や映像の中の釣果と比較して、自分の大物を見失いそうになるのでたまにこうやって考えを整理してやる必要がある。

 上には上がいるものだし、いつかは自分もと心の隅で思うのは当然だと思うが、他人の釣った大物や他人からの評価はあまり気にしない方が良いと思っている。まあ、負け犬の遠吠えのたぐいではあると思う。

 

 遠吠えついでに言ってしまえば、才能やら何やらに恵まれなかったおかげで、当方は釣りを長く楽しむことができている。20キロのロウニンアジを15年近くかかっても釣れていないということは、15年近く20キロのロウニンアジを釣るため、あれこれ道具をいじったり買ったり、計画を立てたり、妄想してみたりと楽しんできたわけである。

 あっさり釣れて飽きてしまわずに良かったのではないか。先日のクリスマス島遠征でも目標クリアならず楽しみはまだ続くのである。

 思えば幸福な釣り人だ。エキスパートなら大して喜ばないような20キロで、かかった長い年月分のこみ上げる喜びを感じることができるのである。

 

 釣れる魚は確かに大きい方が嬉しいのは当たり前だ、でもデカイことだけに価値があるのだろうか、クリスマス島遠征にあたって、ネットでいろいろ情報を集めていたとき、様々な大物釣果を目にした。中には50キロを超えるような大物も何匹かいた。でも、当方が一番心動かされたのは、クリスマス島のリーフエッジで海に腰までつかり、波をかぶりながら、何度もラインブレイクで後ろに転びずぶ濡れになりながらも、ひるまず投げ続け10キロ前後のロウニンアジを釣り上げたYOUTUBEで見た釣り人だった。同じクリスマス島のリーフエッジからもっと大型のロウニンアジを釣っている写真もいくつかあったが、あの映像の中の釣り人の奮闘ぶりが一番心を打った。50キロオーバーより衝撃的だった。

 

 「GTなら50キロ以上ないと価値無いね。」等とおっしゃられるような輩には申し訳ないが、魚のサイズ以上に価値のある「物語」があると当方は思っている。

 たとえば、太いロープに仕掛けをつなぎ針に餌をかけてロウニンアジを釣っている漁のシーンをみたことがあるが、綱引きファイトで30キロオーバーの魚が割と簡単に釣れていた。この30キロオ−バーとYOUTUBEの釣り人の10キロとでは、当方は迷うことなく10キロに軍配を上げる。

 ヤップ島には石の「おかね」があり、近年でも婚礼や土地の売買など重要な取引では使用されているそうである。この石のお金、単純に大きければ価値があるというものではないらしい。ヨーロッパから近代的な船がやってきてその船で運んだものは、いくら大きくても価値が低いそうだ。逆に小さくても古い時代のものであり石の産地であるパラオからの運搬に、時化や事故などで犠牲が出たような由緒ある「物語」があればその石のおかねの価値は高いものとしてあつかわれているらしい。

 客観的には釣果の優劣は魚の大きさでしか測りようが無く、IGFAの統一ルールなどに基づいた中で重さや時に長さで比較されていくが、釣りってそんなに単純じゃないと当方は思っている。

 少なくとも、自分の中には20キロUPのロウニンアジを追い求めてきた物語があり、他人の釣果と比較しても仕方がないのかなと思っている。当方にしか価値の分からない大物がいるのである。

 

 別にそれを他人に認めてもらう必要もないが、20キロのロウニンアジを一所懸命追い求めている当方を、50キロを釣ったからといって馬鹿にするような方がおられるならば、少し意地悪に反撃しておきたい。

 

 「デカイのがえらいのなら、カジキでもサメでももっとデカイのはいくらでもいる。50キロごときでエラそうにするな!」(註2)

 

 言っちゃった。

 おそらくそういわれれば「GTはルアーのキャスティングで狙ってスタンディングでファイトするうえに、走られると根ズレするからある程度早めに止めに入る必要がある。難易度が高いから単純に大きさで比較するおまえは馬鹿だ!」と返してくるだろう。

 

 その通りである「単純に大きさで比較するおまえは馬鹿だ!」なのである。ここで意見の一致を見るのである。

 

 当方は安心して、単純に客観的な大きさだけでは語れない、自分のための大物であるロウニンアジ20キロUPを狙い続けることにしたい。

 心には、いつか1トン208.38キロを超えるホホジロザメを釣る願いを秘めながら。

 

 あなたの心にはどんな大魚が泳いでいますか?

 

 

 

(註1)ちなみに最近では70キロ以上の超大型も釣られている。某メーカーのテスターも釣っているし、トカラ列島からは岸からのロウニンアジ世界記録の72.8キロがでている。そもそも、丸橋英三先生あたりになると、1984年(27年前)のふた昔以上前にすでに、35.4kgのロウニンアジを、しかも、バスでも釣るのか?という16LBクラスラインで仕留めており当時のワールドレコードになっている。彼我の差を思うと情けなくもあり、あまりの違いに自分は自分の釣りをするしかないなとあきらめもつこうかというもの。

 

(註2)スタンディングファイトでシロカジキのグランダー(1000ポンド(約454キロ)オーバー)を仕留めた人がいたり。キャスティングタックルで200キロ近いマグロ釣ったりしている人も世の中にはいるようである。IGFAルールに則って人間が釣り上げた最大の魚はホホジロザメ1208.38kgである。上には上があるということを思い知らされる。何というか同じ「釣り」という種類でくくるのもおかしいような桁の違うサイズの魚を相手にする釣りもあるし、かといってそういう釣りだけが偉いのかといえばそうでもないと普通思うだろう。単純に大きさだけで魚の価値を語るのがいかに無意味か、このあたりの数字を見るだけで普通の釣り人なら理解していただけるのではないだろうか。それでも釣り人は大きな魚を釣りたいと思うのだが。 

 

GTルアーとロウニンアジ用釣り具論

クリスマス島釣行記 

死ぬまでに釣りたい魚とつり場 

 (2011.10) 

 

○2014年9月29日クリスマス島にて、ついに私は私の大物を手中に収めました。

31.5

  ガイド推定35キロ、自身推定31.5キロ

 ロッド:フィッシャーマン社ジャイアント86T(リペア)、リール:PENNスピンフィッシャー7500SS

 メインライン:アバニTUNA6号85lb、リーダー:バリバスナイロンリーダー100lb2ひろと200lb1ヒロ、メインとの接続は「電車FGノット」、ルアーとの接続は打ち抜きリング+スプリットリング

 ルアー:クラフトベイト社ダートベイト

  クリスマス島再戦報告

(2014.10)

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